国分先生生誕百年の顕彰 | Issay's Essay

国分先生生誕百年の顕彰

国分先生

 下関市綾羅木にある下関市考古博物館は「綾羅木郷遺跡・史跡指定26年」の平成7年5月13日に開館しました。
 綾羅木郷遺跡は、学術的には西日本最大(当時)の弥生式遺跡といわれ多くの遺品を出土していました。後に「弥生の土笛」と呼ばれる「陶塤」(とうけん)の出土は注目されたものです。また一方では、鋳物砂採砂の産業開発か文化財保存かで全国的に注目を集めました。
 ところが、昭和40年から続いていた調査と採砂作業に「けじめ」をつけた事件が発生しました。昭和44年3月8日、夕刻から始った遺跡の破戒行為があって、3日後の3月11日、文化庁は、わが国では先例のない異例の持ち回り審議で「史跡・綾羅木郷遺跡」指定を行って、遺跡のうち約3万3千平方メートルを保存することが出来ました。
 そこまで発掘調査が、効果的、順調に進んだのは、当時の市長の理解、郷土史家・吉村次郎さん率いる始原文化研究会があったこと、市民の献身的な協力などもありましたが、とりわけ昭和30年から農林省水産講習所(現・水産大学校)の教授として、国分直一博士が下関に赴任されていたことが幸いでした。国分先生のお蔭で、権威者である金関丈夫博士を団長に向かえ、多くの大学教授らの協力が得られたのです。
 もちろん国分先生は、酷暑の日も、厳寒の日も、泥まみれになって発掘調査の先頭に立ち、参加者の指導と遺跡遺物の調査に余念がありませんでした。
 全国的にも初めての出土例となる「陶塤」も、自宅に帰られてからの研究で「中国の殷(いん)時代に使われはじめた祭祀用の笛“陶塤”と酷似し、大陸との交流を証明するもの」との論文を発表されました。
 この緊急発掘半ばの昭和42年に、先生は東京教育大学文学部教授に転任されますが、遺跡じゅうりん事件のときは、東京における文化財審議官との直接の折衝が、電撃史跡指定に関係したわけです。
 先生は、明治41年(1908)4月28日に東京で生まれ、まもなく台湾に越されてからは、大学時代を除いて戦後の昭和25年まで台湾で過され、国内では高校教諭からのスタートでした。
 退官後は、台湾、鹿児島、北海道、熊本など各大学教授を歴任されましたが、梅光大学には昭和49年に赴任されています。そのとき以来、下関の新日本教育図書出版㈱から民族文化などを中心とした雑誌『えとのす』を32号まで精力的に発刊されました。平成17年(2005)1月11日、96歳の逝去でした。
 今年は国分先生生誕百年に当るとして、国分教授ゆかりの梅光学院では、11月20日から12月25日まで、同学院博物館(下関市向洋町1)で国分教授顕彰の展示会(一般参観自由・日曜日休館・無料)が開催されます。