古川薫さんの『斜陽に立つ』 | Issay's Essay

古川薫さんの『斜陽に立つ』

古川薫さん

 ようやくあの戦争から100年を過ぎました。
昭和一桁生まれの私にとって、日清、日露戦争というのは、祖父のころの出来事で、少年期を第2次世界大戦に育ったこともあって、下関の長府に10歳から12年間も過した乃木さん(乃木希典)のことは、家でも学校でも聞かされ親しみを感じていました。
 田原坂で軍旗を奪われ、日露戦の203高地では多くの犠牲者を出して攻め倦んだことで「愚将」と蔑(さげす)まされ悔しく思っていたとき、古川薫さんの『軍神』(角川書店)「あとがき」に「司馬さんが生きておられればーこれは『殉死』への反論を意図するだけでなくー『乃木神話』の虚構を避けながら私なりな等身大乃木像の描出をこころみた」と心情をにじませた文章に接して思わず溜飲が下がる思いをしたものです。
 その後間もない平成10年3月、長府の乃木神社関係者が中国当局の許可を得て「水師営の旅」を企画され、私も古川さんに誘われ同行する機会をえて、戦後のベールを被ったままの「旅順要塞」を巡ったのです。
 203高地は、リンゴの木に覆われていました。赤い実のなる頃に来れば、死者1万5千人余の犠牲者、「血」のイメージが表現出来たかもしれないと思いながら、芽吹きまえのリンゴの山を車は進みました。
 あれから8年、毎日新聞「日曜くらぶ」の連載小説『斜陽に立つ』が始まったとき、古川さんは、その冒頭から司馬さんが『殉死』に書いた「長府毛利家の士風がよほどおとろえていた」に対して「地方の小藩の士風を、介錯人5人と聞いて、即断で嘲笑するのはどうであろうか」といきなりの皮肉でした。
 この小説は、幕末から明治を走りぬけた乃木希典と児玉源太郎の「生き様と友情」を絡めながら、「乃木は愚将に非ず」と語りかける古川さんの叫びを感じる作品です。平成20年2月下旬に「自警に徹したこの最後のサムライにとって、世上の毀誉褒貶(きよほうへん)は無縁のざわめきでしかなかった。」と70回目の長い連載作品を閉じました。このほど毎日新聞社から同名の『斜陽に立つ』が出版され、シーモールで盛大な記念会も開かれました。
 会場で、照れ笑いされながら祝福される古川さんを見ながら、旅順の東鶏冠山で、あの分厚い遺構(ロシア軍の堡塁ベトンの壁)を叩かれながら、「乃木さんはこれと闘ったんだよなぁ」と古川さんが言われたことなど、かれこれ一昔前のことを、私は思い浮かべていました。