もしあのとき… | パドックに魅せられて

パドックに魅せられて

競馬歴45年。
馬ほど美しい動物はいません。

これはたくさんある。物心ついてなら、「もし野球部を辞めてなければ」「もし大学に行っていれば」「もしあの人と別れてなければ」「もし病気してなければ」「もしあの会社を辞めてなければ」。大きく分ければこの辺でしょうか。

ではこれを一つ一つ検証してみましょうか。

今回は「もし野球部を辞めてなければ」。

私は中学のとき野球部に在籍していました。特別な才能もなく、中学二年の夏までレギュラーにはなれませんでした。三年生の夏の大会が終わったあと、私は三塁手三番でレギュラーになります。三番といっても、私を起用した監督の意図はバンド要員。当時の私がいた野球部のメンバーの中では、一番、二番、四番が才能がありました。私はかろうじて四番目。ですから二番打者が適任だったのですが、監督の考えはバンドで点を取るだった。一番、二番がヒットを打って、三番の私がバンドで送って、四番で返す、というものでした。

三塁手というのも、私自身が思うに、私は足も速かったし、外野のセンスがあったと思っています。体も固かったし、内野手はあまり向いていなかった。

チームは強い方でしたが、秋の大会で大阪府下ベスト8に入りました。大阪府下は準硬式です。大阪市内の中学校は軟式でした。

練習はきつい方でした。ランニングでは泣きべそをかきました。監督はK先生で国語の先生でした。野球をよく知っている監督でした。ですから、当然のように高校でも野球部に入り、ちゃんといい指導者のもとで野球をするつもりでした。

ところが高校の野球部では指導者がいなかったのです。顧問はいるにはいたのですが、毎日は来ない監督で、指導するのは三年生のキャプテンでした。高校の三年生と言えば、今思えば子供です。この子供が偉そうに一年生を指導し、しごきました。もうこれで嫌になってしまったのです。ボールが一個グラウンドに落ちて残っていた、というだけで練習が終わったあと、一年生は全員立たされ説教とケツバット(尻をバットで殴る)。理由はなんでもつけて、毎日がこれでした。試合に行ったら、相手チームの審判に「お前!それセーフやないか!」と文句をつける。中学校で教わった野球とは全く違う、尊厳のない、素人の野球部でした。

嫌になって三ヶ月で辞めてしまいました。でもあのとき辞めてなけらばなあ、と思うことがあります。三年生までやっていれば、私の人生は全く違うものになった可能性があります。野球部を辞めた私は、アルバイトをし、エレキバンドを作ったり、YMCAの青少年活動に入ったり、デモに参加したり、大学受験を拒否したり、最後はミュージシャンになると家出して東京に行ってしまったのです。野球部を辞めてなければ、何かから逃げるということをせずに、違った考えを持ち、逃げずに大学に進んだ可能性があります。全く違った道を歩いていたかもしれません。

まあ、同じ私という人間ですから、同じような道を行ったかもわかりませんが。