ど~も、月1の出番が回ってきました~。
今回は、カタリゴトと本の紹介を少し……。
まぁ、近頃高齢者の生存虚偽(?)が話題になっていることですね~。
「円を求め、宴に踊り、縁を失った日本人」なんてことも、どこぞの情報媒体で記載されていました。
他にも「親を捨てた世代であり、子に捨てられる世代が到来した」なんてこともどこかで聞いた覚えもあります。
ある意味では、その通りであるとも言えると思います。
天涯孤独でもないのに家族からも忘れられているというのは、家族のいない孤独よりもなお一層きついものがあるのではないでようかね~。
けど、この問題が連日取り上げられるのはなぜなんでしょうかね~?
管理社会において管理しきれなくなっていたことが浮き彫りになったからでしょうか?
国民の血税である年金等を不正に受け取っていた可能性があるからでしょうか?
純粋に、家族間すら情がなくなりつつあることを見せつけられるからでしょうか?
単純に大きな話題がないから、とりあえず追っかけているのでしょうか?
マスコミとしては、最後の理由が一番な気がしないでもないですけどね~(僕の独断と偏見に満ちた考えですけどね)。
生きていることの証明は比較的簡単かもしれないけど、生きていないことの証明は難しいでしょうね~。なにせ、ないことを証明するのは悪魔の証明ですし……。
何より、「生きている」ことと「死んでいる」ことの差異があまり明確ではない。医学的にも「脳死」なんてものがあるくらい生死の境はよく分かっていませんしね~。
「死」を理解することのできない僕たちには、「死に続けている」状態の「生」についても正しい知見を得ることは、まさしく死なないと分からないんでしょう。
ただ、「人間」とは人の間に生きている生物と考えるのであれば、縁を亡くしたニンゲンはもう死んでいるのではないでしょうか?
ここで重要なのは、その定義で言うならば自己の「死」とは自分以外に観測されて初めて認識されることにあると思う。そう考えると自分の「死」を認識するのは他人であり、己では決して自己の「死」を認識することはできず、理解しえないものなのであろう。
「生」と「死」は常に傍にあり、認識と理解の外側に存在している。それを無理やりに何らかのシステムに組み込もうとしているから、歪になり問題が発生しているのかもしれませんね~。
騙り言はここまで~。
次は本の紹介を一つ……。
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京極夏彦の「死ねばいいのに」です。
残念ながら画像なし~。
貴方は、表題の台詞を言われたらどう思いますか?
悲しみますか?
怒りますか?
反発しますか?
嘆きますか?
呆然としますか?
それとも……諦めて実行してしまいますか?
この本はミステリーです。
この本は一人の女性の死とその女性の生前の様子を知ろうとする青年の話です。
この本は理解できてしまう同じ価値観を信じる常識人6人の心情を描いた話です。
この本は納得できてしまう異なる価値観を持つ異端人との対談の話です。
この本は理解も納得もしにくい聖人と呼んでもいいような人を中心とした話です。
小難しくて、理屈っぽくて、それでも何処か正しくて……。
納得できてしまう価値観の異なる考え方を知ることは、とても楽しく同時に不安にも襲われます。
それでも、読んでみたら何かがほんの少し変わるかもしれません。
その時にもう一度、己に問いかけてみてください。
表題の台詞を己へと。
熱くもなく冷たくもなく、興味もなく、感情もなく、ただ淡々と……
「死ねばいいのに」
と。
その時貴方はどう感じますか?
やっぱり悲しみますか?
それとも怒りますか? 反発しますか? 嘆きますか? 呆然としますか?
それとも……
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本日のカタリゴトはここまで~。
では~。