米倉斉加年さんの訃報に、一瞬声を失くした。
![1](https://stat.ameba.jp/user_images/20140912/22/kankokugok/fe/97/j/t02200320_0220032013064672431.jpg?caw=800)
舞台を中心に幅広く活躍した俳優。穏やかで柔和な表情から発せられる独特のセリフ回しと、説得力がある芝居に定評のあった人だった。演出家で絵本作家としても知られていた。8月26日、福岡市内の病院で永眠。享年80歳だった。
劇団民芸の先輩だった故宇野重吉さんに言われた「役者が舞台に立つということは、社会的責任を持つということ」が、生涯の指針になったという。その宇野重吉さんと、「ゴドーを待ちながら」など多くの相手役をつとめた。また「放浪記」では森光子さんが演じた林芙美子の友人役を長年にわたり演じ、その他代表作に「オットーと呼ばれる日本人」「リヤ王」などがある。
遺作は10月公開の「ふしぎな岬の物語」。主演の吉永小百合さんとは「動乱」など何度も競演しているが、訃報を聞いて「信じられない」と、絶句したと新聞は報じている。また映画「男はつらいよ」シリーズにも出演し、寅さんと男っぷりを張り合うシーンも好評だった。山田監督の作品では「小さいおうち」にも出演。監督からの信頼も厚かった。
絵本作家としての活躍も特異で、『魔法おしえます』『多毛留(たける)』でイタリアのボローニャ国際児童図書展グラフイック大賞を2年連続受賞した。
![2](https://stat.ameba.jp/user_images/20140912/22/kankokugok/05/ac/j/t02200307_0229032013064672432.jpg?caw=800)
35年ほど前だった、と思う。
大学を出て10年ぶりに、20名ほどの同窓生が熱海につどった。 旧交を温め、夜を徹して当時軍事クーデターで猛威をふるった韓国情勢など、かんかんがくがくの議論を交し合った。当時もそうだが今も、仲間が集まればいつもこんな調子だ。話題は朝鮮半島(南北)の政治情勢や、在日のありようとその行く末。
![3](https://stat.ameba.jp/user_images/20140912/22/kankokugok/94/f8/j/t02200305_0231032013064672433.jpg?caw=800)
ところがその夜、唾を飛ばし合いながらの硬派の政治談義に、不意に冷水をかけるかのような突拍子もないことをしゃべり始めた男がいた。福岡から来た金君だ。しかも話は今までのようなお堅い話しでなく、軟派に属する非日常的なことだった。雰囲気が一気に、軽薄になったかに見えた 唐突に金君は、シバイがいかに面白いかを得々と語った。そして、現在所属している劇団民芸の先輩・米倉斉加年にぞっこんほれ込んでいることを逸話を交えてしゃべり始めたのだった。
映画やドラマをよく観る人なら別だが、政治談議で浮世を過ごすかに見えた多くの同窓生は急激な気流の変化に、「何だ、こいつ」と、金君に不満気な眼差しを向けた。米倉なる者は何者か。キツネにつままれた表情になったが、金君の巧みな話術に全員が引き込まれていった。
その後退団して居酒屋の主になったようだが、米倉さんとの付き合いは続いていた。
「兄貴が芝居の公演で福岡に来ると、必ずおれの店に立ち寄るんだ。オイ金君、今夜はとことん飲もう、と言ってな」
米倉さんとはおれとおまえの仲、と披瀝する金君の表情は生き生きしていた。聞きようによっては眉唾物の、大ぼらの「近況報告」だったかも知れない。
しかし私は、彼の話を全部信じたばかりか、興味津々身を乗り出したほどだ。それには訳がある。
大学時代の金君は、影の薄い人だった。授業は休みがちだったし、出て来ても何か場違いのところにいるような、窮屈そうな振る舞いばかりだ。しかもいつの間に大学に現れなくなったのを見ると、中退して民芸にもぐり込んでいた。
大学卒業数年後金君に出会ったのは、東京の六本木交差点近辺のアマンドという喫茶店だった。
当時私は、雑誌記者だった。劇団俳優座に、加藤剛や山本学、圭の兄弟、佐藤オリエなど、テレビ連続ドラマ「若者たち」(映画にもなった)で一世を風びした新進の俳優たちの取材でよく俳優座に出入りしていた。アマンドは俳優たちとの落ち合い場所で、そこで偶然金君と再会したのだった。
彼の話は、水を得た魚のように活きがよかった。今は劇団民芸の研究生で、きょうは俳優座にいる友人を訪ねたと言った。もっぱら芝居の話が中心だが、言葉の端々に先輩の米倉さんにかわいがられていると得意げに語った。何せ相手はテレビや映画でよく観る有名な俳優だ。いつかは彼にも取材をと思っていたので、とても興味深い話だ。思えば金君も米倉さんも、福岡の出身。またここには、在日が昔から多く住んでいた。
「祖国をよりよく知るために」、在日の若者や学生たちのための月刊雑誌記者だった頃(当時私20代)の再会である。仕事柄、新劇関係や映画界、作家たちとの接触が多少あった。朝鮮半島や在日にかかわる歴史認識や思いなどを取材したり、対談やエッセイを書いていただくための接触だった。
金君からの願ってもない情報だったのに、なぜか米倉さんとの接触は一度もかなわなかった。
ところが25年程前だっただろうか。在日の食品メーカー「モランボン」は、ある日焼肉のたれ「ジャン」のCMをテレビで放映した。起用されたのは何とあの米倉さん。毎日茶の間のテレビから、米倉さんは自信たっぷりに「焼肉のたれ、ジャン!」と視聴者にすすめていた。
CMの話題性は衝撃的だった。何分もないこのCMを観ては「ああ」と、私は意味不明の声をあげたものだ。
考えてみてほしい。韓流なるものが劇的に日本に吹き始めた十年も前の出来事である。出版界もそうだが、当時からあらゆる分野で朝鮮(韓国)と名のついたものは一切商売にならないという妙なジンクスがあった。埒外の代物。CMまで流した「ジャン」の反響はどうなのか? 固唾を呑んで商品の売れ行きに注目した。焼肉のたれに続きキムチ類もスーパーに現れ始めると、スーパーに出かける女房の尻を追って必要以上に買い溜めする始末。何とか妙なジンクスをやぶってほしいという願いを込めて。いま思うと、このときが朝鮮物食品ブームの序曲だったのだろう。
雑誌記者を辞めた後は小さな会社経営に携わった。だから米倉さんとの接触などありようもなかった。
ところがふしぎな縁というべきか、「ジャン」の発売元の「モランボン」のオーナー故全演植さんには親しく付き合っていただいた在日の大先輩だった。会合でしょっちゅう会う機会があり、当然CMの顛末を聴くこととなった。全さんは米倉さんとは古くからの付き合いのようで、彼の見識と人柄にほれ込んで出演を願ったという。
やがてその米倉さんと、私が直接対面する機会がすぐにやって来る。
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当時横浜地域の同胞青年商工人の集まりで「木曜会」という団体があった。もっぱら神奈川同胞金融機関を応援するためにつくられたもので、預金や融資の活性化と、企業活動に貢献しようという訳だ。木曜会は会員の親睦のために、文化活動やゴルフコンペなども旺盛にやっていて、集まりには数百名単位の会員でいつも盛況だった。
文化活動はもっぱら私が担当していた。政治・経済・マスコミ・芸能人と、多彩な人々を招いて講演していただいた。ここに米倉さんの登場を願ったのだった。
木曜会の会誌を見ると、「1979年9月10日、ザ・ホテルヨコハマにおいて第18回定例会に劇団民芸所属の俳優米倉斉加年さんが出席しました」とある。
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30年も前の話なので、当日米倉さんが何を語ったのか細かには覚えていない。ただいやに女性がたくさん集まったということと、韓国情報機関による金大中拉致事件について話したように記憶している。
ひょうひょうとした中に一本筋の通った芯の強さを感じさせた俳優。大物ぶるそぶりは一切なく、出演交渉のときも講演を終えてからも、「ありがとうございました」と深々と頭を下げた謙虚さが印象的だった。「権力者を風刺して笑い飛ばす精神は大切だと思う」と、米倉さんはどこかで語っていた。少しは叶えての旅立ちだったのだろうか。合掌。