即阼堂一帯 【徳寿宮】 | kankoku007のブログ

kankoku007のブログ

ブログの説明を入力します。

徳寿宮の原空間



即阼堂一帯は、文禄の役の時に先祖が臨時に留まった所で、徳寿宮の母胎となったところである。189

7年、高宗がロシア公使館から慶運宮に移った後、1902年、中和殿を建立する前まで正殿として使用

された建物である。1904年の火災で即?堂が消失すると、高宗はこれを非常に惜しんだ。仁祖即位以

後、垂木一つ変えないで大事に保存してきたからだ。現在、即?堂には高宗が手ずから書いた扁額がかか

っている。昔御堂は徳寿宮に唯一残っている重層建物で、丹精が施されていないため素朴な人家のよう

だ。仁祖即位後、慶運宮の殿閣の大部分を元来の住民に返したが、この二つの建物だけは保存して後に慶

運宮の中心となった。浚明堂は皇帝が政治を執っていた便殿で、即?堂と廊下で繋がっている。現在3つ

の建物は1904年に消失後、同じ年に重建されたものである。


イメージ 1





西宮幽閉と仁祖反正の現場、昔御堂



昔御堂は先祖の継妃である仁穆王后金氏が約10年間、監禁生活をしたところである。光海君は王位につ

いた後、自分の王位を脅かす可能性のある兄弟たちを順に除去し、仁穆王后を廃位して慶運宮に幽閉し

た。このとき、慶運宮は西宮と呼ばれた。西宮幽閉は結局、反正を起こす口実となった。反正に成功した

綾陽君(仁祖)は、慶運宮へ仁穆大妃を訪れ正統性を認められて、ここで即位する。幽閉の恨みを抱いて

いた仁穆大妃は昔御堂の前庭に光海君をひざまつかせ、

36条の罪を問うた後、綾陽君は玉璽(ぎょくじ)を渡した。