夜渡ってみましたら夢のようでした。
たまたま駅に至近のビジネスホテルに泊まったから分かった場所でした。
ホテルの方が「あの橋は前の市長さんの時にできた橋です」と教わり尚更のこと足を運びました。
「ぽっぽ橋」も今年2月に亡くなられた市長さんの手書きだそうです。
汽車ぽっぽをイメージされたとか。
駅舎を挟んで山側と海側(北と南)を自転車が3台くらい置けるゆとりあるエレベーターと階段を利用して。
写真は海側から山に向かって撮ったものですが、先の方に小さく見える明かりに誘われるような気がしました。
その時点では前の市長さんもお元気でした。
あの明かりは八堂山から照らしている。
(八堂山の海抜は196、5mだそうです)
夕方から明け方まで灯っていますから、真っ暗の時でも自分の居場所の位置づけが分かる有り難い山の明かり。
向う側に渡りますと、駐車場、駐輪場など田舎にしてはゆとりがありそうな広さでしたが。
昭和43年西条農高の教師生徒で野外調査登山中に、数片の弥生式土器が発見された。
昭和45年市民公園の建設工事を始めたところ、土器の破片が相次ぎ出るので工事を中止した。
発掘調査が行われた結果、
山頂を中心に住居や倉庫跡、石包丁など遺物が出土され、弥生時代の高地性集落の遺跡と判明された。
市民の森の中に西条市歴史考古館があるそうです。
私が最初に行った時には、ずっと明かりを照らしていた建物に土器などが陳列されていましたが、
2度目に行った時には市民のイベントの手工芸展をやっていました。
私が思っている建物と、市民の森の公園にあると言う「歴史考古館」とは建物がちがうのでしょうか?
私が行った建物が山の中央辺りに小さく見えています
以後行っていませんのではっきりしません。
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(`・ω・´)ゞ
2012年の広報さいじょう8月号の39ページで思いがけない記事を見つけました。
我が心の西条 第7回目を読むことにより、小学高学年の頃に良く遊んだ「ひだのかみさん」の謂れが解りました。
「土佐生まれ育ち。長宗我部元親の重臣を務めていた飛騨の守道信が、黒瀬村へ代官として派遣された。
優れた人格者であったらしく、すぐに村人と馴染んで、みんなから「ヒダはん」と親しまれ、敬愛されつつ善政を敷いていた。しかし、天正13年(1585)6月下旬、”天正の陣に際し、たった8騎で氷見の高尾城へと参陣し、翌月中旬の野々市が原決戦で最期をとげられた。
村人たちは深く悲しみ、小さな祠を建て道信の御霊をお奉りした。
昭和47年(1972)黒瀬村はダムにより村中にあった祠を黒瀬峠の頂きへ移された。云々」
と書かれてある。「歴史小説家の管靖匡書く」
”ひだはん”には確かに小さな祠があった。
平地の広場もあって遊べたし、大きいコケモモの樹もあって木登り上手な女子に高いところまで登って貰い、木を揺らして落ちた実を拾いながら昼休みを過ごしたりしていた。懐かしくなった。
今は「我が心の西条」は市長交代以後は書いていない。
書かせてもらえなかった?.
方針が変わったから?? でしょうか?。
第一回は2.011年8月号に、2回は10月号に、3回は12月号に、
4回は2012年2月号に、5回は4月号に、6回は6月号に、7回は8月号に載っている。
ここでお終いになっている。