日没間近の薔薇 11・4・4時過ぎ
再び旧家族の3人で世田谷文学館へ。
娘婿さんは九州や奄美方面へ旅ガラス。
10月30日は台風の心配もあって落ち着かず、見落とした所や間違いがありました。
*鴎外が津和野を出たときは11才です。6才と書いた気がします。
*大逆事件で、幸徳秋水らが逮捕された時に書いた短編小説は「沈黙の塔」でした。
この短編を発表することによって、官の立場にありながら、痛烈に政府を批判したのでした。
一体 小説はこういうものをこういう風に書くべきであるというのが、ひどく囚われた思想ではあるまいか。僕は僕の夜の思想を以て、小説というものは何をどんな風に書いても好いものだと断案を下す。
この短編は「追儺(ついな)」でした。
鴎外が60才の死に臨んで最後の頼みを託した「賀古鶴所」という親友は、安政2年1月2日産まれで77才まで生きられた。
三鷹禅林寺に鴎外の遺言が書かれたものがあります。
「死は一切を打ちきる重大事件なり奈何なる官憲威と雖も比に反抗する事を得ずと信ず 余は石見人森林太郎として死せんと欲す 宮内省陸軍皆縁故あれども生死の別るる瞬間 あらゆる外形的取扱いを辞す 森林太郎として死せんとす 墓は森林太郎墓の外一字もほるべからず 書は中村不折に依託し 宮内省陸軍の栄典には絶対に取りやめを請う 手続はそれぞれあるべし これ唯一の友人に言い残すものにして何人の容喙をも許さず」
大正十一年七月六日
森林太郎 言 拇印
賀古鶴所 書
(この遺言の平仮名の所は全て片仮名で書かれてありました)
賀古鶴所は静岡出身。鴎外と東大同窓生。ドイツ語堪能を頼まれて山県有朋の欧米視察に従い、ベルリンで耳鼻咽喉学を学ぶ。
日清・日露に従軍。*「済生会病院」を創立された。
いろいろと学んだ文化の日でした。
