20歳頃に時々口ずさんでいた歌のことが、2005.12.18の読売編集欄に紹介されていて、意味も起源も知らずに歌っていた歌が甦りました。


1944年・昭和19年のこと。

「中央大学予科生だった藤江英輔さんが勤労動員され、東京の陸軍第二造兵廠で働き始めたのは1944年10月、19歳の時だった。▲動員仲間に召集令状が届き、次々と出征していく。藤江さんが島崎藤村の「若菜集」にある「高楼」の詩に、「惜別の歌」と題して曲をつけ友を見送る歌とした。▲造兵工場の休み時間に、冷えた番茶一杯で送別会をする。二度と再開出来ない。そんな席で歌われるようになり、工場にいた旧制中学生や女学生も覚えてしまった。▲「遠き別れに耐えかねて この高楼にのぼるかな・・・・・・・」で始まる歌は造兵廠で働いていた学生達によって広がって行った。生徒に伝えた人も居た。▲藤江さんは新潮社で長く編集長として勤めた。藤村の詩では「姉」となっている部分を、作曲する際に「友」と変えたが、偶然にも藤村の子息が新潮社にいて、了解を得ることができたという。▲60年を経て今も歌い継がれている。中央大学では学生歌ともなっている。「単なる抒情歌として歌ってほしくない。戦争のことを思い出してほしい。当時の学生たちの心情を知ってほしい」と80歳になった藤江さんは思っている」。と。


私たちが歌っていたのはこんなでした。「遠き別れに耐えかねて この高殿に登るかな 悲しむなかれ我が友よ 旅の衣をととのえよ」でした。何だか解らないまま口に出やすい歌でした。意味が分からないままで歌っていた数々の歌が沢山あります。歌以外にも、昭和17年に小学1年生になった私は毎日の朝礼の時からいつも「教育勅語」の意味が解らないままで神妙に聞いていたことを思い出します。