12月9日の朝、那覇からの声の便りをラジオで聞いた。その朝6時の那覇の気温は18度。昼間になると22度になると言う。海水は更に温度が高いからまだ泳いでいる人もいるとのこと。この放送を聞いているうちに那覇で独り暮らしを楽しく過ごしている友人を思った。


50年前の沖縄はアメリカに捕られていたので、日本の大学に来ることは「留学」であった。持ち出しドルが決まっていて、円で1ヶ月7.000円に限られていた。(その頃の1ドルは360円だった) 7.000円内で生活の全てを賄わなければならない。

 学生寮で同室になったのがご縁の始まりである。10畳くらいの部屋に上級生が2人、新入生が5人の7人の共同生活は狭いと思った。部屋の真ん中に規格の小さ目の机を並べて置き、授業から帰寮後も、それぞれに、それぞれのことを難なくやっていたように思う。夜10時が消灯だったので、その直前に素早くお布団を敷いていた。机の余白に7組のお布団を敷くと重なる部分もあった。降ってわいた寮生活にもすんなりと馴染めた年頃の貴重な体験である。


そのうちに冬がやって来た12月のある日のこと、那覇女が「今までオ-バ-を着たことがない。何れは帰郷するのだから勿体ないとは思うけど、日本は寒い。(当時の那覇女はよく日本、日本と言っていた)。買いに行きたいのであなたにつき合って貰いたい」と言われた。そのあなたの私も東京に詳しくはない。那覇女が行ったことがあるという新宿の「赤札堂」へ付いていく。頼りない付き人のわたし。

彼女のお気に入りのオ-バ-は予算を越えていた。「予算に合ったものを選びましょうよ」と店内を歩いてみたが、既に那覇女はお気に入りに執着していて他の物が見えなくなっていた。かなり飽きていた私が店内をウロウロしていると、那覇女の声が聞こえてきた。1人で値段交渉をしている。そのような買い物をしたことがなかった私は、何となくきまりが悪い感じで彼女から離れたところでドキドキしていた。恥ずかしかった。

たちまち那覇女が晴れ晴れとした顔で「買い物が終わったから帰りましょう」と言って現われた。


帰途の電車の中では2人とも沈黙がちだった。言葉が見つからない。

今思う。那覇女は勇敢だったと。あの時恥ずかしいと思った私は、今、その私を恥ずかしいと思う。


那覇女は高校の先生を定年まで続けた。高校の男子生徒に囲まれているうちに、同い年の青年でさえ「おじさん」に見えて、ついに結婚の相手を見過ごしてしまい古稀近くなっている。沖縄の泡盛とかパイナップルなど送って貰った。私のクラス会が沖縄であったときにはホテルまで会いに来てもくれた。お土産に百科事典のようなぶあつく大きい黒砂糖をもらったが、あまりにも重いので「宅急便で送ってよ」など平気で言った私。


上京の時には例え1時間でも会ってきた友。会うたびに「来年の年賀状では苗字が変っているかも知れないよ。ハハハ」で別れていたけど、変ることがないままで気楽な独身生活を謳歌している。空も良く飛んでいる。たまには日本にも来るらしいが、東京以外の所を旅していると聞いた。


基地の問題他で電話で話すこともある。沖縄新聞を送ってきたこともある。「沖縄県とは名ばかりで元の日本の人を(やまとんちゅ??)とかいって県民の殆どの人が怒っている」とも聞いた。