第二章 布教活動~蓮池観~ | 雲をつかんだ日

第二章 布教活動~蓮池観~

さて、梵天勧請によって、悟りについて凡人にお話しすることを決意したお釈迦様でしたが、よくよく考えて再び瞑想に入りました。

「どうやったらみんなに分かりやすく説明できるか。世の中には金持ちもいれば、貧困にあえぐ人もいる。王様がいれば、それに仕える人がいて、その妻、その子供、その友達、その親、その隣人、その仇もいれば、その恩人もいる。1を聞いて10を理解する人もいれば、10を聞いても1しか理解できない人もいる。人の話を素直に聞く人もいれば、何とかして揚げ足を取ろうとする人もいる。それを踏まえたうえで、どんな順序で説いていこうか…」。

様々なことを考えるなか、お釈迦様の頭に浮かんだのは、蓮池の光景であったといいます。
蓮というのは、水の中に生まれ、水の中で育ちます。
そして、水の中で蕾まま朽ちるものがあれば、ようやく水の上に華をもたげながら、水平線よりも上に出ることがないものもある。
そうかと思えば、水平線上に華を開いて四方に香りを送るものもあります。
すべての人たちがこの蓮のようなもので、なかには悟りの華を咲かせる人もいるはずだ、と考えました。
これを蓮池観(れんちかん)といいます。

気持ちが定まったお釈迦様は、ベレナス郊外の鹿野苑(ろくやおん=サールナート)に向かいました。
そこには、かつて苦行を共にした五人の出家修行者がいたからです。

それはそうでしょう。
世の中の人々のほとんどは、今日の快楽を求め、それに溺れたり、渇望したりしながら生きているだけで、悟りについて考えもしていませんからね。
悟りを目指してともに修行した人たちなら、きっと興味を持って耳を傾けてくれるはず。
そう考えるのは自然でしょう。

ただ、この五人の方たちからしたら微妙ですよね。
「苦行の先に悟りがある」と信じて、ともに頑張っていながら、途中でそれを投げ出したわけですからね。
自分たちの知り合いが数人のライブハウスから始まり、やがてインディーズデビューを果たし、さらにはメジャーデビューというところで、映画の主役に抜擢されたヴォーカリストが、役者稼業にドップリはまり、自然消滅状態となっていたバンドを5年振りに「再結成しよう」と声をかけるようなものです。
それは、他のメンバーからしたら、「都合のいいことばかり言ってんじゃねぇよ」って感じですよね。
この五人もやはり、お釈迦様がサルナートに向かってきているという噂を聞き、お釈迦様が何を話しても無視することにしました。

しかし、お釈迦様がやってくると、五人はうやうやしくもてなしました。
おそらく、ひと目見て"仏陀"である、と感じたのでしょう。
役者の仕事が楽しくて、その方が儲かると考え、音楽を疎かにしていると思っていたヴォーカリストが、実は役者をやりながら、すべての経験をバンドに反映できるようにと、思いを巡らせていたのだと知ったわけです。
そして、お釈迦様は、五人の比丘(びく=出家した男性の修行僧)を前に語り出すのでした。



(合掌)



ご参考までに…。