『古事記』中巻その28~白鳥伝説~ | 雲をつかんだ日

『古事記』中巻その28~白鳥伝説~

ヤマトタケルが目を覚ますと、そこは緑鮮やかな林の中でした。

そこには美しい泉があり、その水を飲むと、徐々に意識がハッキリしてきました。
それと同時に、今までに感じたことのない体調不良に襲われました。
激しい頭痛に苛まれ、手足の感覚を失っていきました。

それでも、ヤマトタケルはそこら辺に落ちていた枝を杖がわりにして、ゆっくりと、一歩、一歩、大和へと歩を進めて行きました。
今にも倒れそうな体を支えた杖が、地面にのめり込んだため、その坂は杖衝坂(つえつきざか)とよばれるようになりました。

能褒野(のぼの)、現在の三重県鈴鹿市まで来たあたりで、いよいよヤマトタケルの体は限界を迎えます。
思い通りにならない自らの足をさすりながら、「私の足はまるで、三重(みえ)に折れてしまっているかのようだ」と嘆きました。
その事から、この地は三重とよばれるようになりました。

「私が死んだら、父上は喜んでくださるだろうか…」。
そんなことを呟き、わずかに微笑んだあと、ヤマトタケルはその場に泣き崩れました。
そして、「倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭し 麗し」と歌い、そのまま力尽きたのでありました。

訃報を聞きつけた人々が、続々と能褒野にやってきて、嘆き悲しむ歌を残しました。
すると、ヤマトタケルの御霊は白鳥となって現れ、西の空へと旅立って行きました。
白鳥は河内の志紀(しき)でとどまったかと思うと、すぐに飛び立ち、天高く飛び去ってしまいました。

白鳥が飛来した地に、ヤマトタケルの陵墓が作られました。
それが、大阪府羽曳野市にある白鳥陵古墳です。
ただ、この古墳が作られたのは6世紀頃とされており、年代的に合わないとの指摘もありますが、いいじゃないですか。
ここでヤマトタケルを偲びましょう。

また、ヤマトタケルが息を引き取った能褒野にも陵墓があり、その近くにはヤマトタケルを祀る能褒野神社があります。



『白鳥陵古墳』羽曳野市軽里3丁』

『能褒野王塚古墳』三重県亀山市田村町字女ヶ坂

『能褒野神社』三重県亀山市田村町1409