今朝、思わされたことの、つぶやきです。
このわたしに、また世の中に、愛さえあれば、すべてはうまくいくのではないでしょうか。
全てのことを一人一人が、見えないところで愛をもって生きることができるのなら。
誰しも幸せになる鍵は愛だと、知りながら愛せない現実がありますよね・・
他人を愛する愛よりも、自分を愛する自己愛が大きく、
しかも、自分を大切にする愛、正しく愛する方法さえ知らないのではないでしょうか。
私自身、愛したいと思いながら生活しているにも関わらず、
自分の思いを抑えられなかったり、かえって人を傷付ける結果になってしまうこともあり、
本当に、心痛い経験をさせられます。
ヨハネ15・12-13
わたしがあなたがたを愛したように、互に愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
愛しなさい。
愛そう。
そう言うのは簡単だけれど行うは難し。
もう一つ聖書の聖句が思い浮かびます。
ルカ7:36~50
「多く赦された者は多く愛する」
ルカ7:36~50
あるパリサイ人(エリート宗教家たち)がイエス様と一緒に食事をしたいと思って家に招きました。そこでイエス様はそのパリサイ人の家に入って、食卓に着かれました。その町に一人の罪深い女がいました。その女はイエス様がパリサイ人の家で食卓に着いておられると知り、香油のつぼを持って来て、泣きながら、イエス様の後ろで、足のそばに立ち、そしてひざまずきました。涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、足に口づけをして、香油を塗りました。
罪深い女がしている行為を心のなかで裁いていたパリサイ人の心を見抜いていたイエスさまは
「 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。」
はじめ、愛するためには、自分の罪を悔い改めることが何より重要であると思っていました。
自分の罪に気付くことなしに、愚かな自分を知ることなしには、神さまの愛に気付くことはできない。
だからむしろ、愛することよりも、悔いて改める(罪を認め、悔いて、180度方向転換をすること)
必要があるのだと。
しかし。
わたしたちは、失敗をした時に、必要なものは、赦しです。
ごめんなさいと悔い改めたとしても、赦されなければ、赦されたとわからなければ、
わたしの心には、それ以降、何の変化も起こらないどころか、罪の呵責は延々と続いていきます。
わたしたち人間がいかに罪深く、愚かであることを、はじめから知っておられる神、イエスさまがおられます。
人は本当に赦されたのだと、知った時、その人は、変わっていくのです。
子どもが、どんな失敗をしても、受け入れてくれる両親の愛情があってこそのびのび育ち、
世間の荒波に揉まれても、帰るべき場所があることを知っている子どもは、強いです。
わたしたちの両親は人間であり、100%こどもの期待に応えることは出来ませんが、
その両親をも造られた父なる神さまがおられ、わたしたちの全ての罪を赦し、
(これまで犯したどんな罪も、そして今犯した罪も、 これから犯すだろう罪も全てです!)
待っておられるのです。
例え、肉の両親に愛情が無かったとしても、私たちは癒される場所がちゃんと用意されています。
これは物凄いことです。
わたしたちはそれに気付くことさえ出来れば、どんなに失敗しても、
今日も安心して生きて行けます。
全てを良いことに変えることのできるお方がバックについておられるのですから。
赦し。
わたしたちは、赦されている。
愛されている。
この大いなる事実に気付くとき、昨晩の大きな失敗を後にして前を向いて生きて行けます。
本当に感謝です。
赦されたものこそが、次に、赦し愛する者に変えられていくのでしょうね。
最近、考えもつかないような大きな失敗が多く、凹んでいました。
立ち直って、もう少し、ほんのちょっとだけでも、わたしの愛のある場所が広くなったらよいです・・
主の改造計画(わたしの)はまだまだ続く・・。
完全に変えられるのは天の御国でですが、
日々、粘土の器のように造り変えられ、少しずつ、マシなものになっていくのだと期待します。
わたしたちは、イエスさまの十字架によって、既に赦されているのです。
信じるだけで平安が来ることを約束してくださっています。
今日一日も、主の平安がみなさまにありますように。

