坂口が「透明人間」になって2年目の春、消防学校を卒業したばかりの後輩である新人・鈴木(21)が入る。通常、消防の世界では1年先輩である坂口が「兄貴役(指導員)」となり、マンツーマンで資機材の扱いから署のルールまで教え込むのが慣例だが、今の坂口にそんなことができるはずもなかった。兄貴役の任務は坂口を飛び越え、さらに上の先輩がやることになった。「おい、今日から配属された鈴木だ。お前の一応、1個上の先輩だから」と紹介された時も、坂口はただ手の平を合わせて「あ、どうも、スイマセン……」と、米つきバッタのようにヘコヘコと頭を下げることしかできなかった。数日も経つと、冷酷な現実がさらに浮き彫りになった。新人の鈴木は、消防学校を優秀な成績で卒業してきただけあって、技能も知識も体力も、1年先輩である坂口を遥かに凌駕していた。訓練になれば、鈴木は機敏な動きでホースを操り、ロープを素早く結ぶ。一方で坂口は、隅っこで首をすくめて見ているだけ。声の大きさも、走るスピードも、座学の知識も、何一つとして後輩に勝てるものがなかった。何より、後輩の鈴木自身が、坂口に対して猛烈にやりづらそうにしていた。鈴木からすれば、自分より仕事ができないくせに、事あるごとに「スイマセン、スイマセン」とペコペコ頭を下げてくる1個上の先輩など、どう接していいか分からない。憐れみと、少しの軽蔑が混ざったような視線が、坂口に突き刺さる。

新人の鈴木は、ハキハキと喋り、先輩たちからも「今年の新人は当たりだ」とちやほやされ、詰所の中心にいた。その光景を隅っこで見るたび、坂口の胸の奥でフラストレーションがたまっていった。周囲の目も残酷で、坂口の行動の逐一を比較されて関係はギクシャクする。鈴木は救助技術訓練大会の「強化選手」になっていたが、自分の居場所が完全に消えたような感覚に陥った坂口は、その日の非番もパチンコ屋へ逃げ込んだ。だが、そんな日に限って全く当たらず、なけなしの生活費からさらに数万円を溶かした。頭が沸騰しそうなほどのイライラを抱えたまま、次の当直が始まった。夕方、車庫の片隅で、鈴木が大会に向けてロープ結びの自主トレをしていた。その真剣な横顔を見た瞬間、坂口の中で何かがブツリと切れた。「おい……」と坂口は低い声で歩み寄った。「あ、坂口さん。どうかしましたか?」「お前さ、調子乗ってんじゃねえよ。目障りなんだよ……!」。いつも「スイマセン」とペコペコしていた坂口の突然の豹変に、鈴木の顔から笑みが消えた。「……何すか急に。文句あるなら、坂口さんも訓練すればいいじゃないですか」。鈴木の正論が、坂口のプライドを完全に粉砕した。「うるせえ!!」と坂口は我を忘れて鈴木の胸ぐらを掴んだ。「ちょっと、何するんですか放してください!」。二人は車庫のコンクリートの上でもつれ合い、激しいつかみ合いになった。鈴木が坂口を振り払おうとした、その弾みだった。「うわっ!」とバランスを崩した鈴木が

が、車庫の隅に置かれていた重い資機材のラックへ激しく激突した。金属の鈍い音と共に、鈴木がその場にうずくまり、「いっ……あ、足が……」と苦悶の表情で右足首を押さえた。みるみるうちに腫れ上がっていく。鈴木はケガをしてしまった。
車庫の悲鳴に、詰所の所長は血相を変えて走ってきた。誰もが「これで坂口は一発クビだ」と確信し、所長は本部へ申し出るも、公式な処分は下されなかった。不祥事が表沙汰になり採用責任を問われることを恐れた本部の、根深い「事なかれ主義」による揉み消しだった。「組織のためだ、穏便に済ませてくれ」という大人の言葉に、鈴木は失望して職場を去る。残された詰所の空気は最悪になり、気まずい先輩たちは、坂口に対して怒る気力すら失い、ただただ目を背けた。それでも、坂口はまだ勤務を続ける相変わらず。仕事も与えられないが、彼にはここにしがみつく他に生きる術がなかった。非番の朝、いつも通りペコペコと頭を下げて実家のアパートへと帰ると、居間では何も知らない母親が「新しく入ってきた会社の後輩の子とは、最近どうなの?」と聞いてくるが、悪気のない的外れな質問に、坂口はうざったく「別に」とだけ返して煎餅布団に潜り込んだ。鈴木はその後、新聞社と弁護士への告発を試み、消防本部に一瞬の緊張が走ったものの、時期が遅く立証が難しいことから揉み消された。組織は「鈴木の方が勤務態度に問題があり、上司の注意を反発して今回事態に至った」と冷酷に説明し、すべての責任を辞めていった鈴木に擦りつけた。
その後、特に病歴のなかった坂口の母親が死ぬ。突然の心臓発作だった。実家で冷たくなった母親

を前に、コミュ力のない坂口は何もできず、駆けつけた坂口の叔父が「何もできねえなこの子は」と坂口を愚痴って、葬儀はすべて叔父が行った。しかし坂口は、母親の死を職場に告げなかった。誰かに事情を聞かれることが恐怖で仕方がなく、葬儀にも出ず慶弔休暇も取得しなかった。唯一の理解者を失い、生活習慣が崩壊した坂口は、それからの1年で随分と体重が増えた。ストレスから髪の毛も薄くなった。火災予防啓発や防災訓練で保育園や学校に行くと、その薄汚れた容姿と陰気な佇まいのせいで、子どもや学生から変な目で見られる。心の拠り所だったパチンコ店でも、他の客とトラブルを起こしてからはパチンコも辞めた。自己破産し、母親を失い、パチンコすら失った坂口。今の彼は、非番の日になると実家にも帰らず、時折市民公園のベンチでポツンと座り込むようになった。誰一人として自分を罰してくれない空虚な世界で、太った身体を丸め、薄くなった頭を垂れて、坂口は相変わらず、ただ死ぬまでの時間を売り続けている。