「世人は何によって束縛されているのですか?
世人をあれこれ行動させるものは何ですか?
何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?」
「世人は歓喜に束縛されている。
思惑が世人をあれこれ行動させるものである。
妄執を断ずることによって安らぎがあると言われている。」
(『スッタニパータ』第1108,1109偈 中村元訳 岩波文庫刊)
この言葉を理解しようと思うとき、一番分かりやすいのは
バブルとそれに続くバブルの崩壊を顧みることです。
ビットバレーが騒がれた日本版ITバブルもそうでした。
その申し子とも言えるホリエモンもそうでした。
これは他人事ではありません。
物事が何でも上手くいき成功して歓喜に溢れているときは、
さらなる成功を求めて、思惑であれこれ動き回るのが、人の常です。
歓喜が、いつの間にかそれをいつまでも続けたいという妄執となり、
妄執が苦しみを生んで、心休まることがなくなるのです。
歓喜すること自体はすばらしいことです。
しかしそれがいつまでも続くものと思う囚われを生まないようにするには
歓喜が有り難いことであると、感謝の念を持つことです。
いつまでも続かないものであると、諸行無常を知ることです。
歓喜は感謝!
合掌 観学院称徳
「道に違(たご)うことになじみ、
道に順(したが)ったことにいそしまず、
目的を捨てて快いことだけを取る人は、
みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。」
(『真理のことば ダンマパダ』第209偈 中村元訳 岩波文庫刊)
人間、歳を重ねるに従って、この言葉の持つ重みに気づかされることになります。
過ぎ去った時間はけっして取り戻すことができないのです。
合掌 観学院称徳
「つとめ励むのは不死の境地である。
怠りなまけるのはのは死の足跡である。
つとめ励む人々は死ぬことが無い。
怠りなまける人々は、常に死んでいる。」
(『感興のことば ウダーナヴァルガ』
第4章第1偈 中村元訳 岩波文庫刊)
この世には生きながら死んでいる人が多いね。
自らの意志に依らず、他人の意志に動かされて
日々の生活を送り、自らの命を削っています。
老若男女を問わず、こういう人が沢山います。
怠惰に流されている人は、あっという間に
歳だけ重ねて、日々死んでいくのと同じことです。
精気もなく目も虚ろで、笑っていても
心から楽しんでいるわけではないのです。
一方、常に前向きで何ごとにもつとめ励んでいる人は
目も顔も輝いており、精気が漲っているのが感じられます。
自らの意志で、夢や目的をもって生きています。
どちらの生き方を選ぶか、それはあなたの心が決めることです。
あなたが幸せになりますように!
生きとし生けるものが幸せになりますように!
合掌 観学院称徳
「『我有り』と考える不当な思惟の根本を制止し、
内に存するすべての妄執を制するために、常に心して学べ。」
(『スッタニパータ』第916偈 中村元訳)
自分が自分がと、自分のことばかり中心に考える人がいます。
自己中心的に考えれば考えるほど、家族や親しい人々、他人の言動が気に障ります。
他者はもちろん社会の有り様すら、自分の思い通りにならないと苦悩することになりますが、
これら心に起こるすべての思いは、自分勝手な不当な思いでしかなく、
自己中心的に考える限り、断ちがたい妄執なのです。
欲望が凝り固まった妄執を断つのは難しいのではないかと言う人がいます。
しかし、妄執の原因が自己中心的な悪い意味での自我意識だとしたら、
他者の視点に立って見て、他者の思いにも理解を寄せることでそれを断つことができます。
もっと進んで慈しみの心をもって他者に接することによって妄執は消え去り、
穏やかなニルヴァーナ(涅槃)の境地に到ることができるのです。
拙僧が最も尊敬する仏教学者である故中村元博士は、
「ブッダの教説の基本構造は、渇愛(=妄執)を制圧して解脱を得よ、と
いうものです。ブッダのニルヴァーナは決して死後のことではありません。
死後安らぎの世界に行くのではなく、今日只今の現実の苦の克服を目指しています。
喝愛の止滅こそニルヴァーナでありました。
ニルヴァーナは、あくまで現世の目標であり、
現世において実現すべきものであったといえましょう。」
との言葉を残されています。
それはまた最古層の原始仏教経典に残された、
お釈迦様の次の言葉でまったく明らかであると思います。
「死ぬよりも前に、妄執をはなれ、過去にこだわることなく、
現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、
かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。」
(『スッタニパータ』第849偈 中村元訳)
あなたに悟りの光が現れますように!
合掌 観学院称徳
