東京都写真美術館にて TOPコレクション 見ることの重奏 展 を観てきました。

(このワードが適しているかわかりませんが展覧会の構成上今回は【ネタバレ】多めの投稿になっているかと思います。)




写真家、批評家、鑑賞者、作り手、語り手、受け手…それぞれの「写真を見る」という行為、それを言葉で表現するという行為は決してひとつに集約されることはないようでいて、ひとつとして同じ音の鳴らない風鈴が一斉に風に揺れてその音が大気に溶ける、そこにはある種の調和がある、そんなことに似ている気もする。
また会場の様々な写真家たちの作品どうしもまた見る人の眼と感性によって響きをうむ。

写真に限らず美術館にいくというのはそういう意味でも愉しい。

言葉と写真で構成されている展示だったが、最初の方で気がついてまずは写真を「ただ見る」ことにした。
その後で写真家や批評家の言葉を読む。
するとまた違った見え方をしてきたり、気になる写真家や作品が変わったりする。面白い。
そのとき自分の内部で何が起こっているのか考える。何故そういうことが起こったのか?何故この作品が気になるのか?
写真美術館に来ると写真を見ると同時に、もしかしたらそれ以上に、「自分を視る」ことが多いように思う。

今日心に引っ掛かったのは寺田真由美さんの作品。









ー記憶を所有したいという欲望は、身辺のオブジェクトから、記憶のコードを引き出し、それらが所在する空間を照らす光を捉えることで、満たされるように思う。それは、明るい部屋の中の光の再構築による。
寺田真由美

という言葉に惹かれた。
その作品を観ているとなにかすごく共感…共有できるものがある気がした。
光について、物体について、影について、考える。

その後寺田さんの制作についてキャプションを読んで驚いた!
これは写真家が模型を作成して撮影したものだそう。風景の再構築。記憶の再構築。
それで少し怖くなった…。
人の記憶やそこに生まれる郷愁や感傷などの胸の一部を噛むような心の動き。それは人工的に操作できるものなのなのだろうか。
作られた風景。誰もいない箱庭。

ただ、ミュージアムカフェでカタログを読んでいたらまた印象が変わった。

寺田さんは、美術作品をつくるのは、自身のセラピーでもあり外側に向けてのコミュニケーションの手段である、という。
それはまさに他者との感覚の共有のためのプロセスらしい。
そう考えると、少し感じた恐怖心はやわらぎ、その写真が寺田さんからの手紙のように思えてくる。
不思議だ…。
一日でくるくると受け取り方が変わる。
私にとっては得難い経験だった。




ウジェーヌ・アジェはやはり良い…

アジェに心酔していたベレニス・アボットの作品は同じように街を写しているようでどこかキリッと自立して見えるのも面白い。
アジェとは異なりアーティストとしての確固たる自覚があったというのでそれが作品にも顕れるのだろうか。



ひとめで気に入った一枚。
アンドレ・ケルテス。
その作品は「あまりに語りすぎる」と評されたとか。納得。



これなどは手法が面白い作品。
一口に写真といっても技法も様々で、それを選んだ写真家の哲学がある。

写真を見るのは面白い。

ミュージアムカフェでビスケットのあんバターサンドと自家製レモンシロップのソーダ割を。
めちゃくちゃ美味しい〜!!


美術館を出た夕景が美しく。

結局図録も買っちゃった✩