(【SSSS.DYNAZENON】ノンクレジットOP|オーイシマサヨシ「インパーフェクト」[Clean OP] Masayoshi Oishi

より)


こんにちは哲学するぼっちです。


今回はSSSS.DYNAZENONにおいて敵役として登場する怪獣優生思想のシズムについて、以下の2つのテーマに沿って考察してみたいと思います。


1つ目は「なぜシズムは左手でインスタンス・ドミネーションを行うのか」


2つ目は「シズムが求めた自由について」


さて、これらのテーマに入る前に、今回取り上げるシズムについて少しまとめてみたいと思います。


シズムは、怪獣優生思想という敵役の1人として登場する人物であり、唯一「怪獣の声」が聞こえることから、怪獣優生思想のメンバーから信頼されています。

そして、その特徴故に、怪獣優生思想の方向性を実質的に決めるポジションにいたりします。

そんな彼ですが、ところどころで怪獣優生思想のメンバーに対して意味深な発言をします。


「本当の怪獣使いは寝たりしないよ。」


だとか


「やっぱり怪獣使いは怪獣を失うと人間に戻ってしまうのか…今のガウマみたいに。」


などなど。

明らかに他のメンバーとは違う雰囲気を醸し出しています。


それもそのはず、シズムは体内に怪獣を宿しており、終盤では彼自身が体内に宿してる怪獣を使役して、強大なラスボスとして主人公たちに立ちはだかります。

怪獣の声が聞こえるというのも、彼自身の中に怪獣がいたからだった、というものでした。


他のメンバーとは違う特徴を持つシズムですが、他にも怪獣を使役するインスタンス・ドミネーションのポーズも異なります。

他のメンバーは右手でインスタンス・ドミネーションを行うのに対して、彼だけは左手で行います。

なぜ、彼だけは右手ではなく、左手で怪獣を使役をするのか。

個人的な結論として、他の怪獣優生思想のメンバーと比較して、怪獣を宿しているために「優位」であることから左手で行うというキャラ付けがされたのではないかと考えています。


優位という言葉を使いましたが、ここで私が言いたいのは左右の優位性についてです。

このようなテーマについて少しかじった方は、ともすれば右優位が一般的では?と思われるかと思います。

実際に古今東西、右の方が優位とみる傾向があり、調べると様々な論文も出てきます。

「右に出る者がいない」ということわざも、右を優位に見る傾向があることから由来してます。

逆に左に関しては、「左遷」という言葉があるように、劣位に見る傾向があります。


しかし昔の日本(という言い方はあまり好きじゃないですが)、具体的には奈良時代と言われるいわゆる上代日本においては、逆に左を優位に見ていました。

ちなみに、怪獣優生思想やガウマが生きていた時代(5000年前)は、現実世界でいうところの縄文時代に相当しますので、これからお話する時代と整合性が取れないですが、そこはフィクションということでご了承ください笑


さて、上代日本において左を優位に見ていた事例としてわかりやすいのはアマテラスの誕生だと思います。天照大御神とも言われるアマテラスは、日本神話についてよく知らなくてもご存知の方は多いかと思います。アマテラスは日本神話において最高神や太陽神と言われ、天皇家とも繋がりがあるとも言われます。(最も、天皇家と繋がりを持たせたのは、恐らく統治者として正当化するためのものかと思いますが)

そんなアマテラスの誕生は、イザナギが左目を洗った時に生まれました。因みに右目を洗った時にはツクヨミが生まれています。


なぜ、アマテラスは「右目」ではなく「左目」から生まれたのか。そこには、当時の人々が農耕民族であったことと太陽が左から昇ってくることが関係しているそうです。

農耕民族にとって、太陽は農作物に直接影響するものであり、非常に重要なものです。そして、その太陽を見る時、向かって左つまり東から出てきます。その太陽と王の関係を結びつけた結果、左優位の考え方が確立したそうです。(1)


このようなところから、当時の人々は左を優位に見ていたことが伺えます。

このような左優位の考え方は、中国の唐代においても見られます。そもそも、上代日本における左優位の考え方は唐から影響受けているため、当然と言えば当然とも言えます。

そして面白いことに、ガウマの元ネタとされる電光超人グリッドマンに登場したミイラは中国で発見されたという設定になっています。

単なる偶然なのか、それとも意図したものなのか。


もう一つ、シズムの後ろに髪を束ねた姿は体内に宿した怪獣を彷彿とさせますが、同時に捉えようによってはどこか女性的な特徴を帯びているとも言えます。

この女性的な特徴、すなわち女性性と左の関係性については、昔から様々な議論があります。特にそのような分野でも有名なのがニーダムの象徴的二元論というものです。ケニアのメル社会を分析し、それを二元論的に図式したというものですが、そこによると左と女性は同じ分類として括られており、強い関係性があります。(2)

どこまで意図しているかわからないですが(流石にここまで意図していないとは思いますが…)、このことも併せて考えてみると、シズムと左手の関係についてより深く考えられそうです。


以上のようなところから、シズムが左手でインスタンス・ドミネーション行うのは、他のメンバーと比べて「優位」であることが言えるのではないかと思います。



次に、2つ目のテーマ「シズムが求めた自由について」考えてみたいと思います。

なお、このテーマにおける考察は、物語に対する考察というより、彼の言う「自由」そのものに対する考察が主なものとなります。


さて、早速彼が考える自由とは何かについて、第5話「恋人みたいって、なに?」と最終話「託されたものって、なに?」からいくつかセリフを取り上げて考えてみたいと思います。


第5話「恋人みたいって、なに?」では、ダイナゼノンの面々とシズムの計6人でプールに行くというストーリーで、恋人のフリをする蓬と夢芽に対して語るシーンで2人に対してこのように語ります。


『そうやって人は自身で理を作るよね。』


『自分で自分を縛っておきながら、自由を求める。他人に流しながら、他人を流す。鬱陶しくないのかな。』


次に、最終話「託されたものって、なに?」で蓬が夢芽の手を握ろうとする際、シズムと蓬が対峙して怪獣使いの素質がある蓬に対して、シズムが語りかけるシーンでは


『彼らは常に人の理の外にある。怪獣は何かに縛られたりしない。君だって見たんだろ。怪獣の力さえあれば、時間や空間、生きることや死ぬことからも解放される。もう少しで無上の自由に辿り着けたのに、後悔はないの?』


と蓬に問いかけます。

このようにシズムは「自由」な世界、それも他者との関係によって縛られないことだけではなく、生死の境界すら無くすことすらも目指したのでした。


このような自由、特に他者との関係に縛られない自由については恐らく多くの人がわかることだと思います。他者がいることで他者を慮る必要があり、私が本当にしたいことができない、なんて経験はその誰しもある経験ではないでしょうか。


しかし、シズムが目指した自由とは本当に自由なのでしょうか?

むしろ、彼自身が「自由」を得るために縛られていると言えそうです。


怪獣を育てるのは人の意志と情動である、と劇中で明言されており、ともすれば怪獣と人間の関係は切っても切れない関係です。

人間は社会的動物であり、他者と関わり合うことで社会を作り、発展してきました。逆に言えば、他者と関わり合わなければ発展はおろか、生きていくことすら出来ないでしょう。パスカルは「人間は考える葦である」と言いましたが、ただの一個体の人間は、まさに葦のように弱々しい存在なです。

そんな他者との関係を絶えず続ける人間から怪獣が育てられるのであれば、そもそもシズムが目指す自由とは、シズムが言うところの不自由のもとに成り立っていると言えそうです。

また、他者との関係があるために情動は生まれるのであり、世界に1人しかいないとしたら、恐らく情動は生まれないでしょうし、情動を生む機能や表現する言語も必要となくなるでしょう。


先述したシズムの問いかけに、蓬はこのように答えました。


『俺は自由を失うんじゃないよ。かけがえのない不自由をこれから手に入れて行くんだ。』


ここでいう不自由とは、差し当たって想い人の夢芽との関係を念頭に置いていると思いますが、まさにシズムが言う『自由』とは、『かけがえのない不自由』のもとに成り立っていると言えるでしょう。

自由を何よりも求め、そして誰よりも求めたものの、結果的にはその自由を辿った先は不自由そのものだったというのは何とも皮肉なものです。


さて今回はここまでです。最後まで読んで頂きありがとうございます。

今度はグリッドマンユニバースについての所感や考察について書いていこうかと思ってます。




参考・引用文献


(1)帯広大谷短期大学紀要「上代における身体性の考察〜左と右について〜」佐藤茂美・池添博彦 https://www.jstage.jst.go.jp/article/oojc/42/0/42_KJ00004124198/_pdf 2005年3月


(2)一橋大学機関リポジトリ「遠似値への接近〜右と左の象徴的分類に関するニーダムの所論をめぐって〜」長島信弘https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/11633/ronso0770300750.pdf 1977年3月


(3)九州人類学会報「わが国宗教文化にみる『左(手)の習俗の解釈についての一つの試み〜「サカサ(逆)ということの意味について」〜』」松永和人https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2244073/p024.pdf pp24-33 1990年7月


(4)同志社女子大学「右と左の話」


吉海 直人


(5)公益社団法人 日本心理学会 「先史時代の右・左」松本直子 https://psych.or.jp/wp-content/uploads/2017/09/73-25-26.pdf