二回目の書きコ!!!!!!!!!!!!

今回も僕が好きな、武将・・・・天草四郎!!


生涯


小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある、現在の熊本県上天草市大矢野島で生まれる、とされる。しかし、宇土郡江部村(現在の宇士市)または長崎出身という説もあり、出生地ははっきりしない。益田家は小西氏滅亡後浪人百姓として一家で宇土に居住したという。頭がとても良く、容姿端麗で女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだった。

小西氏の旧家臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であると考えられており、さまざまな奇跡を起こした伝説や、四郎が豊臣秀頼の落胤・豊臣秀綱であるとする風説も広められた。島原の乱では十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わる。幕府軍の原城総攻撃により討死。首は長崎へ送られ、原城大手門前にて晒された。しかし、幕府側は天草四郎の姿素性の情報を全く知らず、原城に立てこもった反乱軍が皆殺し(内通者一名を除く)にされている為、旗印の近くにあった立派な服装を着た少年の死体を天草四郎と断定したと言われている。その為、首実検しようにもその首自体が天草四郎本人の物かどうかは最終的に分からなかったという。

四郎の秀頼落胤説は、馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから、大坂夏の陣において死去した秀頼が大坂城から脱出して九州へ逃れていたとする論拠で、豊臣家権威の糾合を図ったとも考えられている。豊臣秀綱という名があったと鹿児島での書物に記されてりる。

原城跡に銅像がある。又、後年民家の石垣から発見された、四郎の母が建立したと思われる墓石も立っている。 辞世「今、籠城しているものは、来世まで友となる」。


マジかっこいい!!!!!!若くしてのし、無念