再度、先週の「らんまん」

見た。

 

一度は、紀子が

標本の数を見て

「できません」と千鶴に断り、

 

庭に足を止め

「次の人へ繋げる手伝いをさせてください」

の場面。

足を止めた場面に

笹があった。

あれはスエコザサかも。

寿恵子がいたんだな。

 

そして、戦争に耐えたということに

紀子が

「私は当時17歳でした。怖かった」

と言った場面も印象的だった。

 

紀子のナレーションにあった

「天皇陛下への御進講」は、

昭和23年(1948)10月7日

昭和天皇からは

「あなたは国の宝だ」

「無理せず長生きしてください」

との言葉をかけられたらしい。

 

太平洋戦争の折には、

 

「わしは標本と書籍と心中してしまうんだ」

「ここで一緒に死ぬのだから、疎開することはない」と、

何としてもきかないのです。

これには私も困ってしまいました

(牧野鶴代「父の素顔」)

 

らしい。

山梨の宮久保に東京大学植物学教室の分室ができることとなり、

養蚕家から蔵を借りることになった

ために疎開したらしい。

 

最近、「牧野新日本植物学図鑑」を読むと、

「序」に富太郎の文章がある。

 

「らんまん」にあったように

関わったいろんな人の名前もある。

 

牧野鶴代ノ内面幇助

(「牧野新日本植物図鑑」)

と、鶴代への感謝の言葉が記されていた。

 

富太郎は、

昭和32年(1957)1月18日

94歳で死去。