「あさが来た」で宜という女性がいた。

 

そのモデルは、井上秀という女性。

4代目の日本女子大学学長となる。

 

広岡浅子との出会いは、

 

明治30年(1897)だったらしい。

 

私が初めて広岡さんにお目にかかったのは明治30年の夏の頃でした

(「家庭週報」)

と、秀自身が語っている。

 

「井上秀先生」によると、

 

浅子さまは私に対して「してはいけません」「おやめなさい」ということをほとんどおっしゃらなかった。「やりましょう」「やりなさい」いつでも激励する方でした

と語る。

 

明治34年(1901)4月20日に

日本女子大学は開校。

 

秀は20歳であったが、

その当時、弟・順太郎を病気で亡くした後

両親の勧めで結婚し、長女がいたらしい。

入学にも両親は反対だった。

 

夫の理解によって、妻となってからも、学問が出来、外国も行くことが出来、教職にもつく事が出来ました

(「井上秀先生」)

 

井上先生はお一人娘さんであるため、お家の方から反対も出ましたが、押し切ってご入学、素志を貫き遂に立派な卒業生として成瀬先生の片腕となり、昭和六年から二十二年までは校長として目醒ましい御活躍、又私共の桜楓会大阪支部の最初から育ての親というべき御恩に預かったので御座います

(広岡郁子「井上先生御逝去を悼む」)

とある。

 

秀は、成瀬仁蔵や浅子について

回想を残していて、

それらを読むと、

二人に対する気持ちを感じる。