函館は、すでに桜満開。
明治2年(1869)5月11日に、
箱館戦争総攻撃において、
土方歳三は戦死。
その後も、戦っていた人がいた。
中島三郎助である。
榎本武揚が五稜郭への撤退を勧めても、
「此処を墳墓の地と決めた」
と応じなかったという。
さらには、子息の恒太郎・英次郎の他、
直井友之助・佐々倉松太郎・平田銃太郎
朝夷三郎・近藤彦吉・柴田伸助・福西周太郎らが従ったという。
5月16日、
千代ヶ岡台場に敵が襲来し、
中島三郎助らは戦死。
十津川五山によると、
三郎助は
床机に腰打ちかけ、片手に鐵鞭を取って、腹一字に掻き切りたり
という。49歳であった。
恒太郎は、
「父と共に腹掻き切って相果たり」
22歳であった。
英次郎は
行方知れずだったらしいが、
「中島英次郎小伝」によると、
死骸を検するに刀瘡、弾痕無数あり、所持の刀は血染り、切先折れて最後の奮闘の凄しさを思はしむ
最期であった。19歳。
この戦死した場所は、
現在の「中島町」である。
命日近くには、
中島三郎助祭りが開かれている。