こんにちは。コロナのせいでどこにもいけない一年が過ぎました。
今回は旅ろぐですが、2014年に訪れたものですw
旅した直後は少し事情があって書いていなかった流山の旅。
本編が流山に差し掛かったので、資料の一つに・・・とデータを探すも、「え・・・いつ行ったんだっけ?」てくらい前。
探しまくってデータ見つけたけど、中を確かめても、何の写真か思い出せなかったりw
流山は千葉県にある市で、全然土地勘もないし、2014年といったらまだ勉強もそんなにできてないときだったので、ガイドさんを頼んでいったんですよね。
なので、自分で行程を決めず、ガイドさんの運転でガイドさん任せだったから、よけいに記憶が薄い。
確か、流山駅でガイドさんと落合い、車に乗せててただいて、一番に連れてきていただいたのが、ここ。
ここは、大鳥圭介ら旧幕軍と合流した新選組が宿泊したお寺です。でも、土方さんは幹部だから、本陣に泊まったかもしれません。当時はそんなこと知らないから、「ここに泊まったんですよ」とのガイドに、「へー、自分じゃ絶対辿りつけない場所だしこれてよかったぁぁ」と思ったんですが、本陣に泊まった可能性あるならそっちも見たかった・・・しかし、千葉は遠いよっ
まあ、気を取り直して。
次に連れてきていただいたのが、この何の変哲もない交差点。
拡大してよーく御覧ください。
信号脇の標識に「野田市 山崎」とあります。
ここは、永倉さんと原田さんが別れた場所です。原田さんは、永倉さんと共に新選組を離れ、靖共隊の副長として会津を目指していたのですが、ここ山崎で、「宿に忘れ物をしたから先にいってくれ」といって引き返したきり、永倉さんたちと合流せず、江戸にて彰義隊に参加し戦死したと伝わります。
永倉さんは、妻子への愛着が断ちがたく引き返したと後年語っていますが、ガイドさん曰く、「それはないでしょう」と。私もそう思う。じゃあ、なんで引き返したんでしょうと尋ねると、「さあ・・・本当に何か忘れ物したんじゃないですか」って返事でしたw
続いて流山に引き返し、ガイドさん宅で色んな説明受けたんだけど、空腹すぎたのとトイレ我慢してたのとで、なーんも覚えてない。
その後食べた昼ご飯も思い出せないけど、ファミレスみたいなとこだっけ・・・。覚えてるのは、副鼻腔炎の薬を取り出して飲んでたら、「すごい量。老人みたい」って言われたことだけ←根に持ってるwww
昼からは、流山市の中をガイドしてもらいました。
まずは、ここ。丹後の渡し跡は、新選組が流山に入った時に舟から下りた渡し場の跡です。
続きまして、
赤城神社。
ここは、近藤さんが官軍に捕まってたときに、ほとんどの隊士が集まって調練してた場所です。
これは当時の流山を描いた絵図ですが、中央辺りの山がここです。この絵図の右側に繋がるのが次の画像。
左寄りに「浅間」とあるのが、浅間神社で、官軍が陣を張った場所です。
浅間神社にも行きました。
ガイドさんもろに写ってたから雑に修正wこの神社の裏に大砲を設置し、近藤さんのいる長岡屋に向け、赤城神社にも打ち込んでいます。赤城山の新選組も応戦したらしいですが、近藤さん投降の証に長岡屋に菊の御紋の旗が翻ったことで、諦めたらしいです。
浅間神社裏は、今、このような富士塚といわれるものができていますが、これは後世に作られたもので、実際は小高い丘のようになっていた模様。
そこからズドーンとやったわけですね。
次に訪れたのは、ここ。
矢河原の渡し跡。ここは、近藤さんが官軍に投降して、彼らの屯営所まで連れていかれるときに舟に乗った場所です(涙)
そしてそして、流山の新選組史跡で一番大事なのはここでしょう。
掲示板の右下の方に、各渡し場や本陣の位置関係が書いてあるのでよかったら拡大してご覧ください。
ただ、ここが本陣跡ではないと、ガイドさんはおっしゃっていまして。
実際は、ここ。
このはな幼稚園と、隣の公民館だったかなにかの間くらいの場所だったらしいです。なので、両長のご子孫が来流された折、幼稚園の方に土方さんのご子孫が、公民館の方に近藤さんのご子孫が入られて、決別の地の再現をしたんですよみたいな話をガイドさんはしていた朧げな記憶。
土方推しにとっては最も泣ける史跡と言っていいのではないだろうか。まあ、人によっては一本木関門の方が泣けるのかもしれないけど、私は断然ここだなあ。土方さんは、自身の死に関してはもう受け入れてたと思うから。
さて、流山の史跡巡りはここで終わり。この後、都内に向けて車を走らせ、連れてきていただけたのがここ。
五兵衛新田の金子家です。つまり、ここで土方さんとさくらはイチャイ・・・げふんげふん。
他にも榎本さんのどでかい銅像が建っている公園とか見たけど、割愛でっw
こうやって振り返ってみると盛りだくさんな千葉旅行でした。
ではまた本編で!ハンカチのご用意をお忘れなく・・・