ふと、視線を感じて歩みを止めた。
富士の見える西の空はまだ明るいが、足元には薄闇が這い出し、家路を急ぐ人たちの輪郭も、はや滲み始めている。
私の持つ知識という知識を食らいつくそうとする清三郎さんの熱に引きずられ、予定よりも遅くなってしまった。
医学館まで半刻はかかる。近頃の江戸は物騒きわまりないからと勧められた駕籠を、断ったのは早計だったかもしれない。
振り向くことはせず、空模様を眺めるふりをしながら気配を探る。
殺気、ではないようだ。敵意のある相手なら、もっと張り詰めた、うなじがぞわりとするような嫌な印象を受けるはず。
新選組と合流してからこっち、私はずっと男の形(なり)をしている。半人前隊士に相応しい、質素な羽織に袴。総髪を一つに束ねた、浪人なら珍しくもない髪型。
唯一目を引くものといったら、刀か。羽織袴に丸腰は奇妙だ、一応差すだけは差しておけといわれて携えている。借り物の脇差はしごくあっさりとした拵えだが、長刀は慶喜さんから頂いた上等品だ。
にしたって、羽織でほとんど隠れて、表に出ているのは、柄と鞘先だなのだが。
見られいる、という感覚は、まだ消えない。
嫌な感じもしないままだ。
振り向くべきかやめておくべきか考えるうち、茜空が滲んできたのは、既視感のせい。
この時代に紛れ込んだばかりのころ。
土方さんと係わるようになったころ。
今と同じような視線をしばしば感じた。
―――先生
振り向いた。
早々と大戸をしめる商店の中、一軒だけ提灯に火を入れている居酒屋らしき縄暖簾を、数人の侍がくぐっている。
私が期待した姿はどこにもない。
スラリ高い身の丈に、相応の長い手足。たんび違う装いのせいか、目鼻立ちは模糊として、やけに赤い唇だけが鮮明だ。
その唇が紡ぎだす、淡々としていながら滋味深い言葉は、いくつも胸に刻まれている。
―――もう、いない
山崎さんが、淀での銃創が原因で亡くなったことは理解しているつもりだった。
けれど、やはり私は、どこかで信じていたかったのだろろう。
山崎さんを、紀伊の国で療養のために下船させたという土方さんの優しい嘘を。
日が暮れる。暗くなればなるほど帰路が危険になっていく。
わかっているのに身動きができず、私は、侍たちの消えた縄暖簾を見つめていた。
どうといった店ではない。、耳目を集めるものの何もない変哲のなさが、山崎さんとの思い出を反芻するのにちょうどよかっただけだ。
だから、突如響いた怒号と共に、初老の男性がつんのめるようにして出てきたのには驚いた。
続いて漏れ聞こえたのは、下衆な笑い声。
野卑な響きで何事かを喚き交わしているが、訛りが酷くて聞き取れない。
状況を把握するのは、やや遅れた。
店内からまろび出た男性を目にしても尚、私は山崎さんの面影を追っていた。
―――せんせい
地べたに這いつくばった男性は、襷に前掛け。店の主だろうか。手ぬぐいで覆った髪の鬢の部分は半ばが白い。
こちらを見ている。怯えた顔で。
何を怯えているのだろうと考えるより先に、店内から椅子が飛び出てきた。
「ひっ」
息を呑んだ男性が、咄嗟に頭部を庇うに至って、のったりと思考が回り始めた。
これは、あれだ。
京で何度も目にした光景。
不逞な浪士が、武士であるという特権を振りかざして横暴を働く、見逃せない、捨て置けない―――
遅かった状況把握と裏腹に、体の反応は早かった。
男性に駆け寄って怪我の有無を確かめ、大事無いと判断するや、縄暖簾を跳ね除けていた。
―――さくらさんっ
耳の奥、求めていた人の声が届いた気がした。
もし本物だったなら、制止するに違いない。けれど、発破に聞こえた。
行け、進め、己の信じることを為せと――――――