第三部・十七ノ四話(慶喜) | さらさの「粗野がーる」

さらさの「粗野がーる」

アメーバの携帯ゲーム「艶がーる」の主人公を、28歳・恋愛偏差値20の女性に置き換えた実験的小説を書いています。

あくまでフィクションなので、深く考えずに読んでください


頬を毛羽だたせ、細かく歯を鳴らす私に、哀れをもよおしたか、慶喜さんの眼差しがふっと緩んだ。


「返事はいらないよ、さくら。お前がどう答えようが、俺の考えは変わらないからね」


右手の平で、左手の甲を何度も擦る。


―――大丈夫、消えてない


閉じた扇子を帯へと差し直し、改めて畳の上へと腰を据えた慶喜さんが、「それで」と話を継ぐ。


「将軍などいない世から来たお前は、俺に将軍になれと諭すつもり?」


今度は返事を求められているとわかってはいても、肯定も否定もできはしない。

なって欲しいかと問われても、なった方がいいと思うかと問われても、返事は「否」でもあり、「是」でもある。


「できやしないよね。今、将軍になることが、どれだけハズレ籤か、わからないお前じゃあないもの」

「それは、秋斉さんも」


ようやく発した声は、ねばついて喉に張り付いた。

一時緩んだ空気にぴりりとしたものが混じるのを感じないわけではなかったけれど、伝えないといけないことだと、怯む気持ちを捩じ伏せる。


「秋斉さんも、よくわかってるおられると思います。―――わかっててもっ」


すかさず慶喜さんが抗弁しようとする気配に、ついつい声が高くなった。


「わかってても、それでも・・・というより、だからこそ、慶喜さんにしか務まらない。そうおっしゃってました。慶喜さんの才は、天から授かったものなのだから、損や得ではなく、天下の一大事にこそ発揮しなきゃならないって」


一息に言い切って口を噤む。

私がまくし立てている間は何度も口を開こうとしていた慶喜さんは、黙ったままだ。

たっぷり時間をかけて私を見つめた後、唐突に話題を転じられた。


「徳川に連なる者で、お前が覚えている名前を言ってみて。この代に来てから知った名前は、抜きでね」


何の謎かけだろうと訝しみつつも、私は、求められるまま思いつく名前を口にした。

家康、家光、綱吉、吉宗―――たった四人で滞ったところへ、慶喜さんが素早く口を挟んだ。


「全て、将軍だね。でも、お前は、俺のことも覚えていたようだけど?」


なんて、食えない人なんだろう。重々承知していたはずが、見事にひっかかった自分が情けななさに、カーッと頭に上った血が、いっときに引いた。


私が覚えていた徳川姓の人物は、将軍ばかり。そして、慶喜さんのことも記憶していた。そこから答えが導きだせない慶喜さんではない。


―――回る、回りだす、大小無数の歯車が全て。


いつのまにか、私は自分自身を強く抱き締めていた。

そうしていないと、今にも自分が霞と消えてしまいそうで。


「さくら」


つと伸びてきた手に、頬を撫でられた。

見上げた顔には、まんまと私を追い詰めながら、してやったりの色はまるでなく、ただただ優しく柔らかかった。


「大事ないよ。案ずることはない」


一橋の殿様ではなく、いつもの慶喜さんだと、ほんの少し心が解けるのと同時、なぜ言い切れるのかという反感がチラリと頭をもたげる。


この恐怖は、私のものだ。私だけのものだ。

他の誰にもわかりはしない。


私の思いを知ってか知らずか、大きく長く息を吐いた慶喜さんはどっしりとしている。


「俺はね、自分で言うのもなんだけど、幼き頃から『神君の再来』と言われてきた。お前の記憶にもある、東照大神君家康公だ。ほら、俺のここ」


白くて長い慶喜さんの指が、額を指す。

いかにも賢そうな広い額はつるりと滑らかだけど、向かって左寄りの一部が隆起している。


「この出っ張りは、『日角』といって、帝王の相らしくてね、神君にもあったそうだ。また、俺という子供は、武張ったことが好きで、弁もたったもんだから、父上がすっかりその気になって、いずれは将軍にと夢を見たんだよ。水戸から将軍が出たことはないのだけど、それなら・・・と一橋にやられたってわけ」


身振り手振りを交えた慶喜さんの語り口は軽妙で、ついつい恐怖や反感も忘れて聞き入った。


「英邁だという噂は一人歩きして、俺の意向などお構いなしに、俺を将軍にという画策をする者は、昔も今も後を断たない。けれどね、俺のことを心底『器』だと思って推してくれているのは、二人だけさ。原という当家の用人と」

「秋斉さんですね」


思わず割り込んだ私に、一瞬、慶喜さんの眼差しが翳った。

けれどそれは、私の不調法を責めるものではなく、痛み。もしくは、それに似た何か。


渦を巻く黒い河が、慶喜さんの中にも流れている。


「・・・俺は、荷を負うのが嫌なわけじゃない。けれど、背負子が壊れていては、荷は背負えない。落とすわけにはいかない荷なら尚更だろう。そもそもが、最早一人で負える荷ではないんだ」


言葉だけなら、言い訳に聞こえた。

でも、胡坐の膝で拳を握り、相対する私ではなく、畳の目に視線を据えた慶喜さんの顔つきは、決して及び腰のそれではなかった。


「神君以来、二百年余。徳川は、一手に荷を負ってきた。そうできるだけの背負子をつくりあげたご先祖を、俺は誇りに思う。けれど、もう背負子は壊れている。修繕したところで、長くは保(も)つまい。そこまで傷んだ道具は、どうすればいい?」


問いかける口調と共に、慶喜さんの視線が戻ってきた。

かといって、彼は、私に答えを求めているのではなかった。


「捨てるしかない、そうだろう?」


六畳に足らない部屋に、四本も灯された燭台の蝋燭。

その明かりに照らされた慶喜さんの目は、それ以上の光を宿している。


「この国には、幕府などもういらないんだよ」


誰の耳を憚ることなく放たれた声は、凛とした声。

熱に浮かされたように語られる「新しい国の形」の構想を、私はどこか茫然としたまま聞いていた。


―――歳三さん


胸の内、回りだした歯車の一つなのであろう愛しい名を、何度も何度も呼びながら。


十七ノ五話に続く