促されるまま風呂場へと向かったものの、長湯をする気にはなれず、早々に座敷へと戻った。
襖の引き手に手をかけて、大きく息を吐き出す。
座敷の中は静かだ。
土方さんはあのまま寝入ってしまったのだろうか。
それなら、それでいい。静かに夜具の用意を整えて、布団で寝るようにと促そう。抱き合わない日の夜がいつもそうであるように、裸足の足を触れ合わせて眠ろう。半睡のまま抱き寄せられたなら、自分からも抱き締め返そう。やがて訪れる深い眠りが、安らかなものであるように。
そっと、襖を引いた。
空気が流れ、ふわりと漂ったのは墨の香り。
「随分と早かったな。珍しくカラスの行水か」
日はすっかり落ち、月光が差し込むにはまだ早い時刻のこと。蝋燭が灯されたぼうやりと仄明るい部屋の中には、既に布団が述べられていた。
先ほどは閉められていた庭への障子は再び開け放たれ、片足を投げ出して窓枠にもたれた土方さんは、今夜はもう、仕事をするつもりはないのだろう。白い襦袢姿に変わっている。
傍らには、硯と筆。それから、なにやら書き付けられた短冊が一枚。
私が近づくと、土方さんはさりげない風を装って、短冊を伏せてしまう。
正直、がっかりした。そこには、土方さんの気持ちが書き綴られているはずだから。心を覆い隠された寂しさに、知らず漏らした溜息。土方さんは、そこに私の落胆を嗅ぎ取ったのだろう。
「今更、か」
そう呟くと、再び短冊を表返し、硯と筆を文机へと戻しに立った。
読んでもいいという意思表示なのだろうと、私は残された短冊を手に取った。最早見慣れた流麗な文字は、発句にしては数が多いようだ。
(い、ざ、よ、う、は)
一文字ずつ拾い読む。
―――いざようは 月ばかりには あらねども
(ち、ぎ、り、し、道、を)
―――ちぎりし道を 行く他ぞなし
意味を解した途端、手にした短冊がずしりと重みを増した。
戻ってきた土方さんが、傍らに腰を据えても目を上げることもできない。
「・・・ままならねぇな、人の世は」
耳に届いた呟きに、滲む深い疲労の色が、私を呪縛から解き放った。
膝立ちになり、土方さんの頭を抱き寄せる。
なんだとも、どうしたとも、言われはしなかった。
覗き込んだ土方さんは、私を見上げてうっすらと微笑んだだけだ。
そっと寄せた唇も、なすがまま受けれいれられた。ひりつく心で、私は触れるだけの口付けを重ねた。
混ざる吐息の合間に、土方さんは、何度か私の名を呼んだ。
「さくら」「さくら」と呼ばれるたびに、「歳三さん」と返したかった。
でも、できない。どうしても呼べない。
閉じた瞼の裏で、吹雪のように荒れ散る雪柳の花が、まだ早いと告げてくる。
変わりに私は、別の名を呼んだ。
「義豊さん」
密やかな呼びかけは、強い抱擁で返された。
そのまま、夜具の上に縺れ倒れた私たちは、それでもお互いの肌をまさぐりはせず。
同じ箱に入れて捨てられた子猫の兄弟のように、長い時間言葉もなく寄り添っていた。
眠りに落ちたのはどちらからだったのだろう。
ふと目覚めたとき、土方さんの腕はいまだ私の体に回されていた。
ずっと体重のかかっていた右耳が痺れて、鈍く痛んだ。
土方さんの腕をそっと解き、身を起こす。
蝋燭が燃え尽きてしまった座敷の中は、それでも上りきった月の光で満たされてむしろ明るさを増していた。
畳の上に投げ出された短冊を拾い、開け放しの障子を閉めに行く。
朧月に照らされた春の庭の美しさに、しばし見入った。
つつじの株元に群生する桜草にタチツボスミレ、意図的に残されてるのだろうカタバミやホトケノザ。冬の間、地中で息を潜めていた命が今、迸るように咲いている。その様に誘われて、私は脱いだままになっていた土方さんの下駄をつっかけて庭へと下りた。
(そういえば・・・・・・)
土方さんは、あの時何を投げ捨てたのだろうと思い立ち、月光を受けて青く浮かぶ地面を見渡した。
「それ」は、庭の中ほどにあった。
野草の繁茂する場所まで飛んでいたら目に付かなかったのだろうに、まるで見つけてくれと言わんばかりに、庭の中央に。
拾い上げれば頼りなくしなる「それ」は、雪柳の枝だった。花の一つも残るでなく、痛々しくも丸裸の。
不意に、叫びだしたくなった。
荒れ狂う言葉にならない感情を、喉も裂けよと放ちたかった。
(歳三さん、歳三さん、歳三さん)
溢れ出す名前は、呼ぶことができない。
代わりに、私は雪柳の枝を闇雲に振った。頼りないまでに細いそれは、振れば一本の鞭となり、一振りごとに鋭く強い音を立てる。
振るのを止めた頃には、頬を汗が伝っていた。肩で息をしながら見上げた天には、月が、薄い雲を纏って輝いている。十六日の月は、真円に見えてもその実ほんの少し欠けている。
まったき幸せなど存在しない、ままならないこの世のように。
―――ままならねぇな、人の世は
土方さんの声が蘇り、私は手にした枝を投げ捨てた。
整わない息のまま、座敷へ戻り、文机へ向かう。手にしたままだった短冊を裏返し、筆をとって書き付けた。
―――いざようてこそ 月はうつくし
筆を置き、息を吐く。
左腕を下にしている土方さんの背に、そっと寄り添い抱き締めた。
鼻先を押し付ければ、初めて嗅いだ時からなぜか懐かしい気分になる、土方さんの匂いがする。
ゆったりと打つ鼓動を聞くうちに、昂ぶっていた私のそれも同じテンポを刻み出す。
再び眠りに落ちる間際、淡くなった意識の隅で思った。
負けるもんか、と強く。