いやー・・粗野がの斉藤一は、イヤなヤツですなあ。
でも、腹が黒いわけではない。
人が言いにくいことを、はっきり言う。
そして、彼の言うことは、往々にして正しい。
正論って、耳に痛いことが多いですよね。
粗野がの斉藤さんの望みは、「土方さんが鬼でいること」です。
他の幹部と逆を行く。
それはなぜか。
斉藤さん、藤堂さん、永倉さん。
粗野がの中ではこの三人が、古高氏の拷問もやらされていました。
バラバラ個性の三人です。
でも、土方さんの中では共通点がある。
斉藤さんは、代々の武士ではありません。
御家人株を買ったお父さんの代からの武家です。
だから、ことさら「武士らしさ」にこだわる。
生き方、所作、言動。彼なりの「武士の美学」を持っている。
藤堂さんは、町場に生まれましたが、津藤堂藩主のご落胤とされる人です。
真偽はともかく、本人はそう信じて育ってきた。
ただ、のちに明らかになるとおり、一度は大きく道を踏みずした人でもあります。
彼は、過去の過ちを悔い、生まれ変わった気持ちで「武士らしく」、清く美しく生きようとしています。
永倉さんも、もともとは浅草の呉服屋の血筋ですが、父親の代には、松前藩の家老を務めていたほどのお家の出です。彼は、武士らしくとか、なんとかそういう理屈は言いませんが、根っこの部分が明るく正しい人柄です。
一方、土方さんはどうか。
蝦夷まで戦いぬいた彼のことを、「ラストサムライ」と呼ぶ人もいます。
でも、私は彼はまったく武士らしくない人だと思うのです。
彼が斉藤さんや藤堂さんのような気質の人なら、蝦夷まで行きはしなかった。
会津で討ち死にしていたはず。
それ以前の、油小路や他の捕り物にしても、土方さんは、常に寡勢に多勢であたります。
非常に合理的で結果主義のにおいがします。
では、隊規の「士道に背きまじきこと」はどうなるのか。
武士というのは、不自由な生き物です。
矜持、対面、立場、家・・・さまざまなものにしばられて生きている。
隊規の「士道~」は、その不自由さを逆手にとって設けられたもののように思います。
つまりは、方便。
事実、問題行動を起こした隊士に対する処断方法は、人それぞれ。
臨機応変で、小説などの創作物で語られるような「絶対」のものではあませんでした。
土方さんにとっては方便でも、武士らしく生きようとする人にとっては、「士道にもとる」と言われれば飲まざるを得ない。
なかなかに狡猾なやり方だと思います。
そんな土方さんが、武士らしい三人に汚れ仕事を回すのは、彼らの「らしさ」が新撰組の任務を遂行するためには邪魔っけだから。
お前たちは武士である前に、新撰組の隊士なのだと突きつけるため。
突きつけられた三人の反応はそれぞれで。
藤堂さんは拒否反応を示した。
永倉さんは、気に入らないながらも仕方がないとある程度受け入れている。
斉藤さんは、条件付で引き受ける、です。
条件とは、なにか。
それが、「土方さんが鬼でありつづけること」。
近藤さんが主、新撰組がお家だとするならば、土方さんの行動は、とってもとっても武士らしいとも言えるのです。
素の自分を殺し、自ら鬼役に徹する土方さんを、斉藤さんは買っている。
それこそが、「士道」だと。・・・皮肉な話ですが。
なので、土方さんが鬼の道=士道を貫くなら、自分もまた自身の生き方を曲げてでも働いてやるという思考。
だから、斉藤さんは、さくらが邪魔なんです。
彼女は土方さんを、一人の青年に戻してしまうから。
他の幹部のように打ち解けず、話すとしてもさらけ出してはくれない彼ですが、以上を念頭に彼の言動をなぞっていくと、誰よりも不器用で、青くて、潔癖な、年相応の青年像が見えてくるのではないでしょうか。
藤堂さんと同い年だもんな、斉藤さんw
本当は、油小路以降こそ、斉藤さんの人間味が露わになるんだけど、書き続けられなかったから・・・。
あ、凹んできたリターンズ。
では、また。