「憂しとみし 流れの昔なつかしや」
両脇に立てた蝋燭の火影ちらつく中、暗い金地の屏風に描かれた白牡丹を背に、端然と座した秋斉さんが二曲目を唄い出すと、隣で息を飲む気配がした。
「可愛い男に逢坂の関よりつらい世のならい 思わぬ人にせきとめられて」
情念たっぷりの艶声に乗せ、チントンシャンと哀愁たっぷりの三味線が鳴る。
(秋斉さんも意地が悪い)
強張った藤堂さんの横顔が、少しずつ少しずつ俯いていくのを横目で見ながらそう思う。
「すまぬ心の中にもしばし 住むはゆかりの月の影」
伏せた彼の瞼の裏には、まだ振袖だった頃の花里ちゃんの舞い姿が浮かんでいるのに違いない。
「忍びて映す窓の内 広い世界に住みながら せもう楽しむまこととまこと」
招かれざる客であった私を、伊東さんは歓待してくれた。
招かないどころか、以前から連れておいでと言うのを、秋斉さんがちっとも聞き入れてくれなかったと言うのだ。
横目で窺った秋斉さんは、「さくらはんはお忙しいさかい」と涼しい顔をしていた。
実際、もっと以前に誘われたところで応じていたかどうか。
私の中には、新選組を抜けてしまった伊東さんに対するわだかまりがある。
敵意があって別れたわけではない。彼には彼のやり方があって、信じるところもあって。新選組も御陵衛士も目指すは同じこの国の安寧だということも理解はしている。
それでも尚、新選組に残って欲しかったという勝手な思いだ。
伊東さんが分離するだなんて言い出さなければ、花里ちゃんと藤堂さんが別れることもなかっただろうし、
脱退する、させないで揉めた隊士たちが、守護職屋敷で切腹することもなかったのではないか。
現実のままならなさを伊東さんに転嫁しているだけだと自覚があるから、これまで道端で伊東さんに出会っても、口にはしなかった思い。
けれど、こうして一つの部屋に納まって酒食を共にすれば、酔いに任せてぶちまけてしまいかねない。
秋斉さん不足でつい付いてきてしまったけれど、軽率だったかもしれないとの思いは、通された二階に、先客として藤堂さんを見つけるに至って、益々強まっていた。
でも、今は少しすっきりしている。
身請けされた遊女が昔の恋人を懐かしむこの曲は、さぞや藤堂さんの心をかきむしることだろう。
秋斉さんが唄に乗せたちょっとした意趣返し。
「こんな縁が唐にもあろか 花咲く里の春ならば 雨も香りて名やたたん」
―――数ある唄の中からこの曲を選んで聴かせた秋斉さんの意図がどこにあるか、それは本人に聞かなければわからない。
けれど、私にはこう聞こえた。
立派な志は結構だけど。
早くお遂げにならないと、この唄のように、花里ちゃんにとって貴方は過去になる。
違う男の腕に抱かれて、月影のように仄かな思い出になってしまうよ。
果たして、藤堂さんはにはどう聞こえたか。
「毎度のことながら惚れ惚れするよ」
最後の一音の余韻まで聞き終え、しみじみ呟いた伊東さんに、「先生」と呼びかける。
「先生は止めたまえと言っているのに。君と私は、友だ。そうだろう?」
肩を抱かれるようにした藤堂さんは、ちらりと秋斉さんを見やって、照れくさそうに頬を掻いた。
三味線を片付けていた秋斉さんが、ふっと笑う。
その様子から、今まで何度も繰り返されてきたやり取りであることが窺えて、嬉しいような寂しいような気分になった。
「写しが出来上がったので、お持ちしたのです」
「おおっ、早速に。丁度よかった。秋斉にも見て欲しいと思ってね」
藤堂さんが懐から取り出した奉書紙を、伊東さんが開いて秋斉さんに手渡す。
話の見えない私が居心地悪げにするのを、藤堂さんがそつなく顔を寄せて囁いてくれた。
「内裏へ出す建白書です。まだ推敲段階ですが」
「へぇ」
気の抜けた声が出た。
伊東さんが内裏―――朝廷へ建白する、つまり意見書を出す。その意味が、今ひとつピンときていなかった。
ただ、そんな大切なものを披露してもらえるほどに、秋斉さんが伊東さんの懐深くへ入っている事実。それはやっぱり、私を嬉しくもさせ寂しくもさせた。
「さくらくんも読むかい?」
「先生、それはちょっと」
手招く伊東さんを、藤堂さんが制止し、少し面白くない気分になる。
見せてもらったところでどうせ読めはしないのだけど。
「申し上げたでしょう。さくらさんは、土方さんの」
「うん、聞いた」
「ならば」
「しかし、いずれは近藤さんにも見てもらわねばなるまいよ」
「時期尚早です」
師弟のやり取りにも引っかかるものがあったが、それより私は秋斉さんが気になった。
蝋燭の明かりに翳した建白書を、黙々と読み進む彼の顔が酷く強張っているように見えたから。
けれど、それはちらつく火影の悪戯だったのだろうか。
「如何かな?」
読み終えたと見るや勇んで尋ねる伊東さんの目は、夜空の星も霞むほどに煌いていた。
「大変結構やと思います」
にっこり応える秋斉さんの声に翳りはない。
一方で、右手の指だけが、最早トレードマークになってしまった左小指の包帯を、繰り返し撫で擦っていた。
気づいた伊東さんが、まだ痛むのかと案じるのに、秋斉さんは「いいや」と首を振った。
「早晩治りますやろ」
「それなら安心だが。随分と長引くようだから、大事にしたまえよ」
そう秋斉さんを気遣った伊東さんは、「して」と建白書を取り上げた。
「果たして公方様は、我らの建白を入れてくださるものだろうか」
「・・・そんなん、わてにわからしまへん。親しいしてた言うても、一橋時代の話どす。今はもう忍び歩けるご身分やないさかい」
ふむ、そうか。
二人の会話を聞きながら、一人私は納得する。
慶喜さんがお忍びで置屋に出いりしていたことは、藤堂さんから伊東さんに伝わったのだろう。
伊東さんにとって秋斉さんは、友人であると同時、極太パイプでもあるわけだ。
「けど、お役に立てる機があれば、やって見まひょ。それはお預かりしても?」
「もちろん。君のために用だてた写しだ」
一方で秋斉さんは、今尚慶喜さんと関わりがあることを隠している。
しかも、あくまでも置屋の主としての立場を崩さない。
二人の間にある温度差に、ほっとしかけた自分に鼻白んだ。
(性格悪いな、私)
凹んだところへ、階下で、鍋だ釜だかがひっくり返る金属音が届いて。
伊東さんと藤堂さんの二人が何事かと刀を手にして腰を浮かす。
「旦那様、奥様がまた」
慌しく顔を出した下働きの少女が、おマサさんの異変を告げた。
眉をひそめた伊東さんの後ろをついて降りた台所で、おマサさんは震えながら蹲っていた。
「どうした、おマサ。なんにもないよ。怖いことはもう、なんにも起こりはしない」
優しく声をかけながら抱き起こし、宥める伊東さんの腕の中で、おマサさんの見えぬ目が一杯に開かれている。
「オニ・・・・・・」
漏れでた微かな声に含まれる、抑えようのない怯え。
おマサさんがこうして取り乱すことは珍しいことではない。
辛い過去が何かの拍子に蘇ってしまうのだろうと、藤堂さんが教えてくれたけれど。
「オニが来る、オニが」
繰り返される言葉は、私の胸にぐさりと刺さった。
つい先ほどの自分勝手な心の動きを責められている―――そんな気がして。
藤堂さんが駕籠を拾いに行くというのを断って、小雨降る中秋斉さんと二人、駕籠屋まで歩く道すがら。
そんな自分の気持ちを打ちあけた私に、秋斉さんは傘の中で微かに笑った。
「目の見えへんお人には、かわりによう見えるもんがあるのやろう。けど、あれはあんさんのことやないよ」
そう言い切って秋斉さんは、小指の包帯をしゅるりと解いた。
解かれた包帯はぬかるんだ道でわだかまり、たちまち泥で汚れていった。