あなたが私にくれたもの•••師匠
それは俺が生きるこれからの人生
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一人の騎手見習いがいた。
彼は見習いになる前から馬には乗れたものの、朝は寝坊助。
そして体重が大変重く、騎手としての素質としては如何なものか…という人間だった。
彼は必死だった。
彼なりに必死だった。
毎日毎日、体重との格闘。
朝ごはんを食べて、1日ほとんど飲まず食わずなんてザラの事。
3年間の中で彼は、何回白く温かいご飯を口にしたのだろうか。
定かではない。
それだけでは飽き足らず、規定の体重を維持するために、食事を吐き出し下剤も飲んだ。
そして、百グラムの為に血を抜いた…
あの頃の彼は自分のことで精一杯で、人のことを考える余裕が無かった。
人を傷つけ、不快にし、親を泣かせる…
はっきり言って、最低な人間だった。
そんな彼も、今では一人の障害乗り役としてやっている。
皆さんが想像したであろう通り、「彼」とは俺自身のことだ。
そんな俺をここまでにしてくれたのは他でもない、師匠・矢野 進先生。
先生がいなければ「捨て犬」だった俺は、今どの様に人生を歩んでいたか分からない…
1997年・競馬学校二年生
来る日も来る日も、規則正しい息のつまる生活が続いていた。
それでも一年を乗り越え、いずれやってくる厩舎実習に向けて毎日に励む仲間達。
同期の人間からは厩舎が決まったとの喜びの声が聞こえる中、俺だけは何の通知もされなかった。
募る焦りと不安…
結局、お世話になる厩舎が決まったのは。同期の中でも最後だった。
詳しいいきさつは、ここでは語らないが、後に聞いた話しでは、最初引き受けてくれるはずだった厩舎が急遽取り止めたのだ。
誰も貰い手のない自分。
そんな俺と矢野先生を結びつけてくれたのが、今は定年した馬渕さんという矢野厩舎のベテラン廏務員さんだった。
古くから競馬を知っている方なら「ステージチャンプ」や「ダイナアクトレス」という馬名を耳にした事があるかもしれない。
その名馬たちを担当していた廏務員さんだ。
馬渕さんの奥さんと俺の母親が、中山競馬場で面識があった為、矢野先生に紹介してくれた事で初めて師匠は俺の存在を知る事となった。
そして、恩師と出会う。
いつも通り実技を終え、馬を厩舎に戻した俺は、教官と共にこちらに歩んでくる初老の男性に気がついた。
ハンチング帽子を被り、がに股でこちらへゆっくりと歩むその姿はとても滑稽に見えた。
「こちらがお前がお世話になる矢野 進先生だ。」
教官に紹介されるとにこやかに微笑む男性は俺にこう告げた。
「君を引き受けることとなった矢野です。一人前に育てるから大丈夫だ。」
実際のところ厩舎内部に疎かった俺は
「よろしくお願いします。」
と延べただけでその調教師がどんな人か知らなかった。
でも、その時の俺には厩舎が決まった安堵感だけが心にあったことは確かだ。
調教師・矢野 進
JRA通算532勝
今年2月で定年を迎えた俺の師匠。
管理した競走馬で数々の重賞レースを勝利し、リーディングトレーナーにも輝いたことのある調教師。
名実ともに名伯楽と呼ぶ人も多い。
そんな師匠は、一流騎手である兄弟子・蛯名正義を育てた調教師でもある。
今だに正義さんも、愛着と恩義を込めて「ウチのテキ(調教師)」と呼ぶ。
先生には正義さんも俺も、褒められたことはほとんどない。
褒めたとしても、いいとこ「よしよし。」ぐらいだ。
そして、怒るととてつもなく怖い。
ちっちゃいくせに、迫力があり、目に宿る威圧感が半端でないのだ。
それでも昔よりは丸くなったと知る人は言うから、以前の先生は余程恐ろしかったのであろう。
確かに俺が見習いの時より更に丸くなった気がするが、全盛期の時は想像はつくものの考えたくない。
そして、師匠はとても頑固。
言葉を間違えると大変なことになる。
はっきり言って融通がきかなくなるからだ。
お世話になっていた当時は、慎重に言葉を選び伝えるように心掛けていた。
話しを戻すが、俺は今まで先生に褒められた記憶がほとんどない。
怒られた記憶はごまんとあるのにだ。
そんな俺にも忘れられない出来事があった。
デビューして何年目だろうか。
今だに朝は得意なほうではないが、一度とんでもない寝坊をした。
目を覚ますと、日は昇りスズメが元気に鳴いていた。
う~ん。爽やかな朝だ。
時計を見ると、朝9:00。
俺の白い顔から血の気がサーっと引いていき、自分でも青ざめているのが分かった。
世間一般では普通の寝坊かもしれないが、ここは競走馬を管理するトレーニングセンター。
この日のスケジュールでは調教がほとんど終わっている状態。
人生終わった…
グッバイ俺…
大袈裟に聞こえるかもしれないが、平日のトレセンにおいて一番重要なのは朝なのだ。
「なにがなんでも朝だけは遅れるなよ!」
厩舎スタッフの口ぐせだ。
この何度聞かされたかわからないセリフをすっぽかし、見事に寝坊した。
恐る恐る厩舎に行く…
最初に助手を発見し、
「すみませんでした…」
と告げる。
一瞬の沈黙の後、助手は開口いきなり、
「オマエもう辞めろ。」
と一言。
がび~ん。
ショックのあまり、声が出なかった。
また、怖くて助手の顔も見れない。
もう一度だけ謝ると、先生にも謝ってきますと告げた。
厩舎の先生側に着き、戸を開けようとするが力が入らない。
と言うより、身体が拒絶して戸を開けられない。
それくらい俺は怯えていた。
ふぅ~と深呼吸をし、これは自分の責任なんだからけじめをつけなければと、心に決めると中に入った。
「失礼します!」
すると、中の座敷から
「おぅ。光希か?」
と、一言聞こえた。
ひ、ひぃぃぃ
勇気を振り絞り、座敷へと上がると、そのままうつむき正座する。
「すみませんでした!」
静寂の中に先生が走らせるペンの音だけがカリカリと響き、
部屋には重い空気が淀んでいた。
手にじっとりとした汗を握り、その時を待つ。
「光希…どうした?」
きた…
「はい。自分のミスで寝坊しました!すみませんでした!」
再び訪れる沈黙…
今度はペンの音さえしない。
俺は恐る恐る、ゆっくりと顔を上げて先生を見つめた。
そこには優しくとも、茶化すとも感じられる師匠の笑顔があった…
「光希。本当にオマエは朝がダメな奴だな!」
はい…すみません。
「オマエは朝だけなんだ!後はいっぱしの障害騎手としてやっていける。本当に上手くなった。だから大丈夫だ!しっかりやれ!」
視界がぼやけた…
そして、大粒の雫が頬をつたって流れ落ちた。
あれ。止まらない…
溢れだす感情。
にこやかに微笑む師匠。
訳もわからず、ひたすら泣いた。
こんな訳の分からない自然と溢れる涙を流したのは、父の死以来だろうか…
そして、この時俺は父の時のような冷たく悲しい涙ではなく、初めて暖かい温もりに包まれた涙を覚えた。
今日も1日が始まる。
寒いし、眠いし、馬は元気が良すぎて手を焼くし…
先生は今日も弟子の名前を間違って呼ぶし、しかも頑固ときたもんだ。
はぁ~
でも俺はあの時決めたんだ。
俺はこの人に一生ついていくんだと・・・。