伝言メモが3件あります。
「みつきくーん、おばあちゃんだけどこれから野菜の煮物を作るから、1時過ぎに来てね~」
普段、電話とメールまた少々の情報収集にしか活用しない携帯電話。
あまり押し慣れたとは言えないボタンを押すと、聞きなれた優しい声が流れた。
闘病生活の中で、容態が安定し一時帰宅していた時の祖母の声だった。
便利になっていく世の中で、電話もパソコンも機能を十分に生かし切れていない自分に苦笑しつつも、ある意味、使い切れないという失敗にも似たものが正解にも感じた。
震災後一週間は見舞いどころではなくなってしまったが、更に数日が経過すると、余震は続いていても、それでもほぼ普通に近い状態で生活を営みつつ、最後の数週間は空いた時間に週に2~3度も有明にある病室に通う事が出来たことは幸いで、ありがたみを感じた。
痛みを抑えるために、薬品を使っている所為もあってか祖母は次第に寝ている事が多くなったが、月曜日に「孫が帰ったぜーい!」なんて手を握りながら話しかけると薄らと目をあけてくれた4月11日。
12日には母の口から「先生が、今週いっぱいもつかどうか・・・って」と聞かされた。
翌日の水曜は追い切りを終え、少々の用事を済ませると車を走らせた。
病室に着くと姉貴が迎えてくれた。今は姉しかいないようで、どうやらいつも通り病室の片隅で英語の勉強をしていたようだ。
僕が見てもちんぷんかんぷんな文字列の書いてあるノートをどけると、そこに座って手を握って声をかけてあげてくれとのこと。
ベッドの横に腰掛けると、また少し小さくくなった雰囲気の中で、呼吸も幾分弱くなった感じがした。
それでも握ったその手は温かった。
「ばーちゃん、孫が帰ったぜーい・・・」
はっきりした反応がない中で話しかけている自分の姿にシュールだなーとか思いつつも、「看護師さんが声は聞こえてるってさ」と言う姉の言葉を信じた。
ふと姉が「最近ね、寝ている事が多くなっちゃったけど、たまーに起きると夢見たって言ってたんだよー。」と洩らす。
どうやら美味しい物を食べた夢を見たらしい。
家で一緒に食べた野菜の煮物も貝のお寿司も、なーんも食べれなくなっちゃったもんな。
どうすれば姉にばれない様、目頭を押さえられるかななんてしかめっ面をしながらそっぽを向くと、ティッシュで鼻をかむふりをした。
たかだか仕事合間の40分間。それが祖母に会った最後となった。
僕は祖母の死に顔を見なかった。
幾つになっても女性は女性で、静かに寝息をたてる綺麗な寝顔だけを記憶にとどめてあげた方が喜ぶのではないかと思ったからだ。
僕は通夜にも葬儀にもでなかった。
周囲にはどう思われるんだろうなどと複雑にも感じたが、元気だったころ僕の騎乗する姿を見て、飛び跳ねるほど一喜一憂してくれていた祖母の話を聞いていたので、結局土曜のお通夜と日曜の葬儀は阪神で騎乗することにした。
自分の行動をなんで?って聞かれると、なんでかなーとは思いつつ、考えが至らないかもしれないが、自分なりに考え行動してみる。
それ全てが正解ではなく、間違っていたのかもしれないと自問自答をしつつ。
葬儀には間に合わなかったが、競馬を終えた僕は喪服を着用し、浦安にある祖母の家へと向かった。
一段落済ませた親戚一同に温かく迎えられると、挨拶もほどほどに、一番逢いたかった人への前へと歩み寄る。
「孫が帰ったぜーい」
小さく小さくなってしまったばーちゃんの横には、綺麗におめかしした写真が飾ってあった。
線香をあげ、両手を合わせしばしの沈黙と共に様々な物思いにふける。
ふと目の前がボヤけたが、だがしかし僕は男なので泣かない。
毅然とした態度で格好の良いところをばーちゃんには見ていて欲しい。
見栄っ張りでごめんなさい。
まぁ、そうも上手くいかないのが僕という人間の常なので、その後に何食わぬ顔をして洗面台へと向かうのがオチだったのだが。
数日後、ふと携帯をいじくりまわしていると使いなれない機能のボタンがあった。
(伝言メモが3件あります。)
どうやら消し忘れていたようで、何気なく再生してみる。
「もしもしみつきくーん、おばあちゃんだけどこれから野菜の煮物を作るから、1時過ぎに来てね~」
「もしもしみつきくーん、身体大丈夫だったー?落馬、残念だったけど怪我しないで良かったね~」
「もしもーしみつきくーん、二着頑張ったねー。おめでとう。身体気をつけて頑張ってね~」
もう聞くことができないと思っていた優しい声がそこにはあった。
どうやら僕の涙腺はまた緩くなったらしい。
そうして僕はまた一つ大人になった気がした。
普段、電話とメールまた少々の情報収集にしか活用しない携帯電話。
あまり押し慣れたとは言えないボタンを押すと、聞きなれた優しい声が流れた。
闘病生活の中で、容態が安定し一時帰宅していた時の祖母の声だった。
便利になっていく世の中で、電話もパソコンも機能を十分に生かし切れていない自分に苦笑しつつも、ある意味、使い切れないという失敗にも似たものが正解にも感じた。
震災後一週間は見舞いどころではなくなってしまったが、更に数日が経過すると、余震は続いていても、それでもほぼ普通に近い状態で生活を営みつつ、最後の数週間は空いた時間に週に2~3度も有明にある病室に通う事が出来たことは幸いで、ありがたみを感じた。
痛みを抑えるために、薬品を使っている所為もあってか祖母は次第に寝ている事が多くなったが、月曜日に「孫が帰ったぜーい!」なんて手を握りながら話しかけると薄らと目をあけてくれた4月11日。
12日には母の口から「先生が、今週いっぱいもつかどうか・・・って」と聞かされた。
翌日の水曜は追い切りを終え、少々の用事を済ませると車を走らせた。
病室に着くと姉貴が迎えてくれた。今は姉しかいないようで、どうやらいつも通り病室の片隅で英語の勉強をしていたようだ。
僕が見てもちんぷんかんぷんな文字列の書いてあるノートをどけると、そこに座って手を握って声をかけてあげてくれとのこと。
ベッドの横に腰掛けると、また少し小さくくなった雰囲気の中で、呼吸も幾分弱くなった感じがした。
それでも握ったその手は温かった。
「ばーちゃん、孫が帰ったぜーい・・・」
はっきりした反応がない中で話しかけている自分の姿にシュールだなーとか思いつつも、「看護師さんが声は聞こえてるってさ」と言う姉の言葉を信じた。
ふと姉が「最近ね、寝ている事が多くなっちゃったけど、たまーに起きると夢見たって言ってたんだよー。」と洩らす。
どうやら美味しい物を食べた夢を見たらしい。
家で一緒に食べた野菜の煮物も貝のお寿司も、なーんも食べれなくなっちゃったもんな。
どうすれば姉にばれない様、目頭を押さえられるかななんてしかめっ面をしながらそっぽを向くと、ティッシュで鼻をかむふりをした。
たかだか仕事合間の40分間。それが祖母に会った最後となった。
僕は祖母の死に顔を見なかった。
幾つになっても女性は女性で、静かに寝息をたてる綺麗な寝顔だけを記憶にとどめてあげた方が喜ぶのではないかと思ったからだ。
僕は通夜にも葬儀にもでなかった。
周囲にはどう思われるんだろうなどと複雑にも感じたが、元気だったころ僕の騎乗する姿を見て、飛び跳ねるほど一喜一憂してくれていた祖母の話を聞いていたので、結局土曜のお通夜と日曜の葬儀は阪神で騎乗することにした。
自分の行動をなんで?って聞かれると、なんでかなーとは思いつつ、考えが至らないかもしれないが、自分なりに考え行動してみる。
それ全てが正解ではなく、間違っていたのかもしれないと自問自答をしつつ。
葬儀には間に合わなかったが、競馬を終えた僕は喪服を着用し、浦安にある祖母の家へと向かった。
一段落済ませた親戚一同に温かく迎えられると、挨拶もほどほどに、一番逢いたかった人への前へと歩み寄る。
「孫が帰ったぜーい」
小さく小さくなってしまったばーちゃんの横には、綺麗におめかしした写真が飾ってあった。
線香をあげ、両手を合わせしばしの沈黙と共に様々な物思いにふける。
ふと目の前がボヤけたが、だがしかし僕は男なので泣かない。
毅然とした態度で格好の良いところをばーちゃんには見ていて欲しい。
見栄っ張りでごめんなさい。
まぁ、そうも上手くいかないのが僕という人間の常なので、その後に何食わぬ顔をして洗面台へと向かうのがオチだったのだが。
数日後、ふと携帯をいじくりまわしていると使いなれない機能のボタンがあった。
(伝言メモが3件あります。)
どうやら消し忘れていたようで、何気なく再生してみる。
「もしもしみつきくーん、おばあちゃんだけどこれから野菜の煮物を作るから、1時過ぎに来てね~」
「もしもしみつきくーん、身体大丈夫だったー?落馬、残念だったけど怪我しないで良かったね~」
「もしもーしみつきくーん、二着頑張ったねー。おめでとう。身体気をつけて頑張ってね~」
もう聞くことができないと思っていた優しい声がそこにはあった。
どうやら僕の涙腺はまた緩くなったらしい。
そうして僕はまた一つ大人になった気がした。