好きこそものの上手なれ
はて、いつどこでどんな理由で、何か書いてみようと思ったのだろう。
ブログを初めて一年たった今、コメントを読み返し、また過去の日記を見つめてみる。
知人に紹介されたSNSがきっかけで、試しに書いてみた・・・
というのが、そもそもの始まりだったように思う。
稚拙また駄のつくような文を書きなぐっている現在、過去に比べ少しは上達したりしているのだろうか。
文で飯を食っている人には到底及ぶわけもなく、だが誤字脱字だらけなりともグダグダ日記を続けていられるのは他でもない。「好き」だからだ。
思えば、小学校の頃から本を読むのは好きだったと思う。
しかし、以前書いたように、僕は作文一つ書けない人間だった。
英語数学理科社会、全てにおいて中学生止まり。
別に国語も特別出来たわけでもなく、言うなれば普通。
全くの凡人である自分が、ちょっとでも上手くなりたい・伝えたいと試行錯誤するのは「好き」であり「やりたい」からなのだろう。
僕は子どもを育てたことがない。
ましてや子どもに何かを教わりはしても、教えたことはない。
今向き合っているのは自分と馬。
ちょっと長くなりそうだが、馬に置き換えて考えてみた。
「何故、馬は走るのか?」
こんな疑問を感じたことがある人も、中にはいるかと思う。
本能。そういう風に育てられたから。人が教えたから。走りたいからetc
そもそも理由なんてあるのだろうか。
人の解釈なんて、極論、エゴでしかないようにも思う。
人が十人十色なのと同じで、彼等は十馬十色。
性格も違えば、能力も違う。
その中で、抜きん出て速く走る馬が「G1ホース」であり「一流馬」となりうる。
では、その馬が障害を飛んだら同じように「一流」になれるのだろうか?
僕はなれないと思う。
人間に短距離が得意な人や、長距離が得意な人がいるように、馬にも得手不得手がある。
勿論、そういった理由もあるだろう。
何より難しく思うのは、人は先人がいてコツなどを教えて貰ったり、研究・分析して考えることが出来るが、馬はそうではない。
中には自分から、あたかも教わった事があるかのように、大木と呼ばれる丸太を跨ぎ、次から次へと、物ともせずに障害を飛ぶ馬もいる。
だが、殆どの馬は近づくのを躊躇ったり、おっかなびっくりでゆっくり徐々に進歩し、こなしていく馬が多い。
そこから先は本当にセンスと、それを伸ばす人間の教え方一つなのだと思う。
僕は人に障害レースを走る馬の事を話すとき、よく「跳び箱」を話に持ち出す。
それは、助走・踏切・飛越・着地とニュアンスが似ていると思うからだ。
では、皆さんは跳び箱を何段まで飛ぶことが出来るだろうか。
僕の記憶の中では、低いなれども最初から飛べる子どももいたと記憶しているが、全く飛べない子どももいた。
自分自身も、5段くらいまでは余裕だったが、6段目以降は恐怖に負けそうだった気がする。
チャレンジする機会もないしやりたいとも思わないが、世の中にはそびえ立つ壁のような跳び箱に挑戦する人を、TVで見たこともある。
僕には到底無理だと感じる。
それは他でもない。「怖いから試さない。試してみようとも思わない」のだ。
憶測でしかないが、馬も障害は怖いのではないか。
それを言葉を交わせない馬に教えるには、丁寧かつ、時には大胆に無理やりでも飛ばす必要がある。
その中で何かを掴み取ってもらうしかない。
全く飛ばなかった馬が飛ぶようになり、また飛ぶのを拒否した事もある馬が、立派にオープンクラスで活躍している馬もいる。
彼らが、
飛ぶのが「好き」になったとは言わない。
「楽しいと感じてくれている」とも思わない。
飛ぶようになった「馬」と、何かを掴んだ「人間」は違う。
出来なかった事が出来るようになると、人間は嬉しいし楽しい。
僕は馬にも人にも、何かが伝われば、嬉しいし楽しい。
「楽しい。」
それは人間にしか言葉に表せない感情。
好きだから、楽しい。
難しいけど、楽しい。
楽しいから、苦とは思わない。
馬もそう感じてくれているといいのにな・・・
と思わずにはいられない今日この頃なのです。
ブログを初めて一年たった今、コメントを読み返し、また過去の日記を見つめてみる。
知人に紹介されたSNSがきっかけで、試しに書いてみた・・・
というのが、そもそもの始まりだったように思う。
稚拙また駄のつくような文を書きなぐっている現在、過去に比べ少しは上達したりしているのだろうか。
文で飯を食っている人には到底及ぶわけもなく、だが誤字脱字だらけなりともグダグダ日記を続けていられるのは他でもない。「好き」だからだ。
思えば、小学校の頃から本を読むのは好きだったと思う。
しかし、以前書いたように、僕は作文一つ書けない人間だった。
英語数学理科社会、全てにおいて中学生止まり。
別に国語も特別出来たわけでもなく、言うなれば普通。
全くの凡人である自分が、ちょっとでも上手くなりたい・伝えたいと試行錯誤するのは「好き」であり「やりたい」からなのだろう。
僕は子どもを育てたことがない。
ましてや子どもに何かを教わりはしても、教えたことはない。
今向き合っているのは自分と馬。
ちょっと長くなりそうだが、馬に置き換えて考えてみた。
「何故、馬は走るのか?」
こんな疑問を感じたことがある人も、中にはいるかと思う。
本能。そういう風に育てられたから。人が教えたから。走りたいからetc
そもそも理由なんてあるのだろうか。
人の解釈なんて、極論、エゴでしかないようにも思う。
人が十人十色なのと同じで、彼等は十馬十色。
性格も違えば、能力も違う。
その中で、抜きん出て速く走る馬が「G1ホース」であり「一流馬」となりうる。
では、その馬が障害を飛んだら同じように「一流」になれるのだろうか?
僕はなれないと思う。
人間に短距離が得意な人や、長距離が得意な人がいるように、馬にも得手不得手がある。
勿論、そういった理由もあるだろう。
何より難しく思うのは、人は先人がいてコツなどを教えて貰ったり、研究・分析して考えることが出来るが、馬はそうではない。
中には自分から、あたかも教わった事があるかのように、大木と呼ばれる丸太を跨ぎ、次から次へと、物ともせずに障害を飛ぶ馬もいる。
だが、殆どの馬は近づくのを躊躇ったり、おっかなびっくりでゆっくり徐々に進歩し、こなしていく馬が多い。
そこから先は本当にセンスと、それを伸ばす人間の教え方一つなのだと思う。
僕は人に障害レースを走る馬の事を話すとき、よく「跳び箱」を話に持ち出す。
それは、助走・踏切・飛越・着地とニュアンスが似ていると思うからだ。
では、皆さんは跳び箱を何段まで飛ぶことが出来るだろうか。
僕の記憶の中では、低いなれども最初から飛べる子どももいたと記憶しているが、全く飛べない子どももいた。
自分自身も、5段くらいまでは余裕だったが、6段目以降は恐怖に負けそうだった気がする。
チャレンジする機会もないしやりたいとも思わないが、世の中にはそびえ立つ壁のような跳び箱に挑戦する人を、TVで見たこともある。
僕には到底無理だと感じる。
それは他でもない。「怖いから試さない。試してみようとも思わない」のだ。
憶測でしかないが、馬も障害は怖いのではないか。
それを言葉を交わせない馬に教えるには、丁寧かつ、時には大胆に無理やりでも飛ばす必要がある。
その中で何かを掴み取ってもらうしかない。
全く飛ばなかった馬が飛ぶようになり、また飛ぶのを拒否した事もある馬が、立派にオープンクラスで活躍している馬もいる。
彼らが、
飛ぶのが「好き」になったとは言わない。
「楽しいと感じてくれている」とも思わない。
飛ぶようになった「馬」と、何かを掴んだ「人間」は違う。
出来なかった事が出来るようになると、人間は嬉しいし楽しい。
僕は馬にも人にも、何かが伝われば、嬉しいし楽しい。
「楽しい。」
それは人間にしか言葉に表せない感情。
好きだから、楽しい。
難しいけど、楽しい。
楽しいから、苦とは思わない。
馬もそう感じてくれているといいのにな・・・
と思わずにはいられない今日この頃なのです。