社会の窓
小学6年生の時だった。
中山競馬場の乗馬センターへと向かう為、僕は一人、武蔵野線に揺られていた。
夏の日差しが強い中、涼しい車内の冷房に心地よさを感じながら、うつらうつらしていた時だ。
ふと、自分の向かいに人の気配がして、目を覚ました。
いくらか増えた乗客の所為もあったのだろう。
背の小さい自分に申し合わせたかのように、目と鼻の先にそれはあった。
開眼したその目前に広がる社会の窓。
そしてそこから、顔を覗かせる白いワイシャツの裾。
さりげなさを微塵にも感じさせないそれは、もはや威風堂々たるものだった。
「ぶっ・・・」
何も言わず。いや、何も言えない僕には噴き出すことしかできなかった。
僕の目の前に仁王立ちする、サラリーマン風の男性。
全開のチャック。
そしてその股間からひょっこりと顔を出す白いワイシャツ。
部屋とワイシャツと私、ならまだ心に響くなにかがありそうなものだ。
だが、その時の状況は「股間とワイシャツと俺」。
小学6年生の自分に、一体何を求めているというのだ。
笑うしかないじゃないか・・・・
あの時、僕はただ俯き、そして震え、渾身の上目使いでその白い物体をちら見することしか出来なかった。
今思えば、小学生に指摘されるのも恥ずかしいだろうが、会社の同僚や知人に発見されるよりはマシというものだろう。
一言、進言すればよかった。
人は変わる。
きっと今なら、あのサラリーマン風の男性に手を差し伸べることが出来たかもしない。
時は変わって現代。
僕は今週の騎乗の為、上野駅まで常磐線に揺られていた。
東野圭吾さんの著書「時生」を熱心に読みふけっていると、ふと視界にチェックのパンツが映り込んできた。
歳は自分と同じくらいだろうか・・・
そのカジュアルな風貌に気を取られ、足もとから徐々に上へと視点を這いあがらせた。
ふと昔の記憶が僕の頭をよぎる。
そう、また再びチャック全開さんと出くわしたのだ。
「うわっ・・・今回のほうがさり気ないけど、間違いなく開いてる・・・」
大人になってから分かった。
チャックって結構、閉め忘れる。
俺も朝一番から全開で馬に乗ろうとして気が付き、辺りをキョロキョロしながらその社会の窓を素知らぬ顔で閉じることがある。
そうだ。
季節も季節だし、蒸れ防止なのかもしれないじゃないか。
もし、わざと開けてたらどうしよう。
でも、ここは指摘してあげた方がやっぱり・・・
思いを巡らせながら、そーっとその社会の窓から上へと視線を上げた時だった。
おもいっきり、そのチャック全開お兄さんと眼があった。
人は不思議なもので、他人からの視線をふと感じることがある。
そして一度気がついてしまうと、気になって仕方がなくなるものだ。
このお兄さんも同様、先ほどから僕が発するそのオーラを感じていたようで、こちらの意も知らぬまま、突き刺さるような眼光を向けてきた。
「違うんだよ・・・チャック開いてるんだよぅ・・・」
こちらの思いも知らず、鋭い視線を発するお兄さん。
気まずい。
とっても気まずい。
そして狭い車内に溢れる人ごみの中では身動きも取れない。
お互いがお互いを意識し、流れる空気。
恋愛なら良いものを、居心地悪いことこの上ない。
あぁ、めっちゃKYになりたい・・・
そうこうしているうちに、社会の窓を解き放ったお兄さんは目的地に着いたようで、さっさと下車してしまった。
残された自分は、良心の阿責に苦しみつつも、彼の無事を願った。
翌日、無事に競馬を終えた。
僕は、帰りの電車で再び読書に没頭する。
そして再度人の気配を目の前に感じた。
ふっと視界を広くする。
「あ、本に夢中になっていました。もしよろしければ、こちらいかがですか?」
初老のおばあさんは、にこやかに応じてくれた。
『ありがとう』
あの時の気まずさに比べたら席を譲るなんて、然程の事でもない。
もしかしたら中には、まだ譲られるほど歳はくってない!という人もいるかもしれない。
小さな気遣い、大きなお世話だ。
それを考えてしまうと、多少声はかけ辛いものだ。
しかし、彼のおかげで僕は些細な事は気にせず、臆することなく譲れた。
同じ過ちを繰り返してしまうこともあるが、それを思い出させてくれた彼に、きっと感謝するべきなのだろう。
中山競馬場の乗馬センターへと向かう為、僕は一人、武蔵野線に揺られていた。
夏の日差しが強い中、涼しい車内の冷房に心地よさを感じながら、うつらうつらしていた時だ。
ふと、自分の向かいに人の気配がして、目を覚ました。
いくらか増えた乗客の所為もあったのだろう。
背の小さい自分に申し合わせたかのように、目と鼻の先にそれはあった。
開眼したその目前に広がる社会の窓。
そしてそこから、顔を覗かせる白いワイシャツの裾。
さりげなさを微塵にも感じさせないそれは、もはや威風堂々たるものだった。
「ぶっ・・・」
何も言わず。いや、何も言えない僕には噴き出すことしかできなかった。
僕の目の前に仁王立ちする、サラリーマン風の男性。
全開のチャック。
そしてその股間からひょっこりと顔を出す白いワイシャツ。
部屋とワイシャツと私、ならまだ心に響くなにかがありそうなものだ。
だが、その時の状況は「股間とワイシャツと俺」。
小学6年生の自分に、一体何を求めているというのだ。
笑うしかないじゃないか・・・・
あの時、僕はただ俯き、そして震え、渾身の上目使いでその白い物体をちら見することしか出来なかった。
今思えば、小学生に指摘されるのも恥ずかしいだろうが、会社の同僚や知人に発見されるよりはマシというものだろう。
一言、進言すればよかった。
人は変わる。
きっと今なら、あのサラリーマン風の男性に手を差し伸べることが出来たかもしない。
時は変わって現代。
僕は今週の騎乗の為、上野駅まで常磐線に揺られていた。
東野圭吾さんの著書「時生」を熱心に読みふけっていると、ふと視界にチェックのパンツが映り込んできた。
歳は自分と同じくらいだろうか・・・
そのカジュアルな風貌に気を取られ、足もとから徐々に上へと視点を這いあがらせた。
ふと昔の記憶が僕の頭をよぎる。
そう、また再びチャック全開さんと出くわしたのだ。
「うわっ・・・今回のほうがさり気ないけど、間違いなく開いてる・・・」
大人になってから分かった。
チャックって結構、閉め忘れる。
俺も朝一番から全開で馬に乗ろうとして気が付き、辺りをキョロキョロしながらその社会の窓を素知らぬ顔で閉じることがある。
そうだ。
季節も季節だし、蒸れ防止なのかもしれないじゃないか。
もし、わざと開けてたらどうしよう。
でも、ここは指摘してあげた方がやっぱり・・・
思いを巡らせながら、そーっとその社会の窓から上へと視線を上げた時だった。
おもいっきり、そのチャック全開お兄さんと眼があった。
人は不思議なもので、他人からの視線をふと感じることがある。
そして一度気がついてしまうと、気になって仕方がなくなるものだ。
このお兄さんも同様、先ほどから僕が発するそのオーラを感じていたようで、こちらの意も知らぬまま、突き刺さるような眼光を向けてきた。
「違うんだよ・・・チャック開いてるんだよぅ・・・」
こちらの思いも知らず、鋭い視線を発するお兄さん。
気まずい。
とっても気まずい。
そして狭い車内に溢れる人ごみの中では身動きも取れない。
お互いがお互いを意識し、流れる空気。
恋愛なら良いものを、居心地悪いことこの上ない。
あぁ、めっちゃKYになりたい・・・
そうこうしているうちに、社会の窓を解き放ったお兄さんは目的地に着いたようで、さっさと下車してしまった。
残された自分は、良心の阿責に苦しみつつも、彼の無事を願った。
翌日、無事に競馬を終えた。
僕は、帰りの電車で再び読書に没頭する。
そして再度人の気配を目の前に感じた。
ふっと視界を広くする。
「あ、本に夢中になっていました。もしよろしければ、こちらいかがですか?」
初老のおばあさんは、にこやかに応じてくれた。
『ありがとう』
あの時の気まずさに比べたら席を譲るなんて、然程の事でもない。
もしかしたら中には、まだ譲られるほど歳はくってない!という人もいるかもしれない。
小さな気遣い、大きなお世話だ。
それを考えてしまうと、多少声はかけ辛いものだ。
しかし、彼のおかげで僕は些細な事は気にせず、臆することなく譲れた。
同じ過ちを繰り返してしまうこともあるが、それを思い出させてくれた彼に、きっと感謝するべきなのだろう。