あなたが私にくれたもの・・・テレジェニック(3) | 金子光希オフィシャルブログ「そらとぶおにいちゃん」Powered by Ameba

あなたが私にくれたもの・・・テレジェニック(3)

皆さん、こんにちは。
いつまでたっても、旧タイプ(ガンダ部参照)。寮長です。
最近、まもさん(吉永護騎手)に『どうした!ニュータイプ!』と、用も無もないのにからかわれるのですが、負け惜しみしか言えません。

前回の最後に、厩務員さんの話が少しでましたが、そういう方は稀で、トレセンにいる多くの厩務員さんは僕以上に仕事熱心で、馬が好きな方がいっぱいいます。
皆さんも分かって下さってると思いますが、補足として書いておきます。

ダラダラと申し訳ないかぎりですが、気が向きましたら続きをどうぞ!




夢を信じた。

そして三人で一丸となり、夢に向かって突き進んだ。

そこから生まれた小さな絆は、やがて周囲を巻き込み、大きな輪となり声援となって返ってきた。


=============

毎日、テレジェニックの調教に乗っていた俺だったが、新たに担当する事になったケンタに日頃の調教を任せることになった。
彼は競馬学校・厩務員課程を卒業し、初めて配属されたのが矢野厩舎で、また初めて担当した馬がテレジェニックだった。

慣れない生活といきなり任された癖のある馬。
さぞかし困惑したことだろう。

しかし彼は泣き言一つ洩らさずに仕事をし、馬乗りもメキメキと上手くなった。

そして俺には信頼できる厩務員であり、また唯一無二の友が出来たのだ。
ケンタの存在が、俺には何より心強いものとなった。


テレジェニックはその後も競馬自体は、常勝は出来なかったが、
コンスタントに掲示板に載り、惜しい競馬をするこの馬を応援してくれるファンが増えてきていた。

気がつくと、テレジェニックや俺、ケンタの応援の幕が走るたびに並んでいて、
その応援という支えが力をくれた。


いつしか俺は、この厩舎とこの馬で、そしてこの仲間で重賞制覇という大いなる夢を成し遂げたい…という願いで一杯になっていた。


ある時、顔馴染みの新聞記者にこんなダメ出しをされた事がある。

「あの馬が勝てないのは、お前達の試行錯誤が足らないからだ!」と。


悔しかった。

そして歯痒かった。


ケンタとは以前から一緒に酒を飲む仲だったが、このダメ出しをくらってからは更に二人で考え、語りあった。

飯を食うときも風呂に入るときも、寝付くまで目一杯考えた。


そうして迎えた2006年3月、中山競馬場。

外国馬を交えたペガサスジャンプステークスでのこと。

考えに考えた挙げ句、今までとっていた先行の積極策を捨て、後方待機の一か八かに賭けることにした。
たかだか、前に位置を取るか、それとも後ろに取るかの違いと言ってしまえばそれまでなのだが…

これは十数頭が走る障害レース。
最後方から走れば、前にその十数頭が障害を飛び越え、どこでどの馬がひっくり返るかも分からない。

敢えてとる戦法にしてはリスクが高すぎ、また人馬共にかかるプレッシャーは並大抵ではないのだ。


そのプレッシャーをはねのけ、外国馬を含めた並み居る強豪達を押し退けて勝利した。


今思えば、ここで俺も、ケンタも、テレジェニックも力を使い果たしてしまったのかもしれない…

それくらい会心のレースだった。


そうしている間に、2007年4月迄に走った数々の競馬において、勝ったレースを含め二十二戦連続掲示板を達成した。

勝ち星は3勝だったが、これはこれで凄い記録だと個人的に思う。

何が凄いかというと、数は少ない障害レースだが、落馬もなし故障もなしでそれだけ無難に走ることが、どれほど難しいかという事なのだ。

「無事是名馬」という言葉があるらしいが、テレジェニックほど無事に、かつ結果を出してきた馬は、そんなに多くはいないのではないか。

なかなかこの馬の凄さを伝えきれない事がもどかしいが、知らない方には、ふーんぐらいに思っていただけると幸いに思う。


そして気が付けば、俺は関東上位の騎手達に食らい付いていける程度の障害騎手になっていた。


2006年、上々の結果を残した翌年。

2007年4月
中山競馬場
「中山グランドジャンプ(J‐G1)」

前年は三着と勝てはしなかったものの、惜しい競馬をしていた事もあり、俺とケンタは今年はやってやろうと意気込んで挑んだ。


大勢の観客

高らかに鳴り響くファンファーレ

これは日本国内で、年末の「中山大障害」と同じく、障害競馬の最高峰になるレース。

人馬共に高揚し、意を決してこの大レースに臨む。

スタートし、中団に位置をとった俺とテレジェニックは一つ一つの障害を見事に飛び越え、名物である高さ1メートル60センチの大竹柵を華麗にクリアする。


いい手応えだ…


次の小さめの障害を飛び越せば、もう一つの難関である大生け垣が待ち構えている。
この後控えている大生け垣に比べれば、次の小さい障害など問題ではない。

油断だったのか

それとも、ただの偶然だったのか

間歩が合わなかった…

以前、踏み切りが合わなかった時は、馬の判断に任せて無事に飛越する事ができた。

今回も当然の様に信じた。

テレジェニックは場数を踏み、そして結果を出してきたベテランジャンパーなんだ。
今ここで、俺が信じなくて一体どうする。

そして相棒は、上手く踏み切れず半ば走り抜ける様にして飛越した。

着地したその瞬間、それまで気持ち良さげに走っていた相棒は、後ろ脚を落とすような格好をした。

まるで「うっ…」と短く悶絶したかのような落とし方だった。
それと共に、急に悪くなった手応え。

今までみた事がない相棒の異変に、俺は戸惑いの色を隠せなかった。

「嫌な落とし方をしたな…」

瞬時に身体全体の動きを把握し、状況を判断する。

「パンクはしていない。が、次は大生け垣だ。イケるか…」

大生け垣も高さ1メートル60センチある。しかも、幅は大竹柵よりも断然デカい。
馬によっては踏み切りから着地まで4~5メートルは、ゆうに飛ぶ。


「行くしかない…」


俺は覚悟を決めた。

他馬と共に、問題の大生け垣に向かう。
迫り来る恐怖、とも思える巨大な壁の様な障害が行く手を阻む。

無事に飛べた…が

彼の手応えは一段と悪くなり、苦しそうな気配が俺の

拳に

脚に

感覚に

ひしひしと伝わってくる。

止めたい・・・

今すぐ競走を中止して相棒の無事を確かめたい。

しかし止められない・・・


葛藤していた。

「大丈夫か!?」と愛馬に語りかけながら、一人自問自答していた。

これは競馬・・・

生半可なことは、する事ができない競馬・・・

テレジェニックはパンクをしていない。
乗っていて異変を感じるが、パンクはしていない。もし止めて異常が無かったら、言い訳ができない。

次第に悪くなる手応えを感じながら、残る障害を一つまた一つと負担のないよう大事に飛ばす。

泣きそうだった。

愛馬が心配で心配で、涙がでそうだった。

一頭、また一頭と俺達を交わして行き、その走り去る足音と共に、夢への蹄跡も消え失せた。

気がつくと、いつの間にか他馬から遠く離されていた。

ゴールすると彼は力なく、すぐに走ることをやめた。
友の待つ検量室の前で下馬し、相棒の身体をチェックしながらケンタに状況を伝える。

「止めてからも歩様は大丈夫そうだけど…後は頼む」

友は「任せて」としっかり答え、相棒を引き連れ帰っていった。


それから9月、10月、と相次ぎ掲示板(5着以内)を外し、周囲からは
「あの馬は終わったな」
「もう充分走ったろ」
なんて声が聞こえてきた。

苦笑いしながら、表向きは「ですかねぇ…」なんて言ってみたものの、
でも俺は諦らめられない。いや、諦めたくない。
皆で一花咲かせる夢は忘れられないんだ。

俺は苦汁を飲みながら友と、話しあい助けあい様々な工夫をこらした。


そうして12月を迎え、暮れのJ・G1中山大障害の前哨戦であるイルミネーションジャンプステークス。

結果は七着と思わしくなかったが、相棒は幾らか以前のように気持ち良く走っていたように感じた。

本番の中山大障害。

翌年2月に定年を迎える師匠の、最後のG1レース。

今までやる事はやった。

友と相談し、とにかく気持ち良く走らせてやろうと決めた。


結果は12着。

素直に喜べる結果では無かったが、俺はやる事は全てやりきったという清々しさに包まれていた。


VTRを眺めた後、馬主さんの関係者の方を見つけると、乗せてもらった感謝の意と共に、結果を出せなかった謝罪をした。

にこやかに微笑んだ、その方の口から一言

「テレジェニックは今回で引退させる事が決まりました。」と告げられた。


一瞬の沈黙の後、俺は改めて今まで世話になった事の感謝を伝え、その場を後にした。

引退・・・

薄々、予感はしていたが、現実に言われてみるとやはりキツい。

夢が叶わなかった悔しさ、相棒と師匠に華を添えることが出来なかった不甲斐なさに、一人、涙を流した。

テレジェニックと馬房で…

(最終章に続く)