李英宗(リー・アン・トン)が王位を継承したとき、わずか3歳でした。そこで、王太后・黎氏(レ・ティ)が最大の権力を握っていた。


 李王太后は杜英武(ドー・アン・ヴー)と関係を持っていたため、宮廷の大小の事柄はすべて杜という名前のこの偉大な官吏の手に委ねられていた。

 杜英武は禁制の宮殿に出入りすることを許されず、傲慢で宮廷の役人たちを見下し、権力を乱用したため、官吏の武帯(ヴー・ダイ)、阮楊、阮國、楊嗣明は杜英武の失脚について話し合った。

  それが明らかになったとき、全員が杜英武 によって殺された。
 幸いなことに、当時の宮廷には、蘇憲城(Tô Hiến Thành、トー・ヒエン・タイン)、李公信など優秀な官吏がいたので、杜英武の野望は阻止された。

  蘇憲城は国王が東方と戦い、北方を制圧して国の平和を保つのを手助けしただけでなく、兵士を訓練し、優秀な人材を将軍に選び、軍隊と人民を見守った。それで、当時の大越は強力になった。

 神社の三観門。

 

 1171年と1172年に、王は危険な山岳地帯を歩き、人々の生活を観察し、それから役人に大越国の地図を作るように命じた。

 体力の衰えを知った国王は、蘇憲城を国の軍事担当副大尉に任命し、王の称号を与えると同時に、蘇憲城に皇太子・龍幹(ロン・カン)の指導を任せた。

 英宗は、在位37年、40歳で逝去した。

 神社の最初の祭壇。

 李恵宗の皇后、譚氏大后

 

 皇帝を神として祀る神社はないといってはいるが、李朝全体を祀っている神社は、故郷の北寧省徐山(バスで行くことができる)に建立され、子孫が維持管理している。李朝は八代で終焉するが、実際には、九代の女王・李昭皇が何日かではあるが、7歳で在位している。一応、名前だけは残っている。これは、最後にご紹介いたします。

 皇帝を祀る神社は徐山いあるが、その近くに、仏蹟寺(chùa Phật Tích)が建立され、李一族を祀っている。

 ベトナム語には、Vua(ヴア・王)とVương(ヴオン・王)という言葉があるが、Vuaは、唯一の王であり。皇帝である。Vươngは地方にいる豪族のようで、一人だけではない王である。

 また、皇子と王子の違いも、皇子は皇帝の子どもであり、王子は豪族王の子どもをいう。