李仁宗は7歳で王を継ぎ、後見人として、倚蘭が尽くした。

 李聖宗王と倚蘭王女の間に生まれたのが、皇太子・乾徳である。 


 仁宗王(7歳で王位に就く)はまだ若かったので、摂政として側室倚蘭の援助と、当時の偉大な頭脳である大師・李道成(リー・ダオ・タイン)と国父大尉・李常傑(リー・トゥオン・キエット)の援助のおかげで、大越(Đại Việt)は強くなった。

ここで、倚蘭元妃について、

 李王朝について語るとき、国を統治する才能を持った李朝時代の有名人である倚蘭について語らないわけにはいきません。

 倚蘭の本名は黎氏燕(レ・ティ・イェン、Lê Thị Yến)といい、吐磊(トー・ロイ)村の出身で(後に超塁・北寧省順城に変更され)、現在はハノイの嘉林県(ザーラム)になる。

 

 平民の生まれではあったが、頭脳明晰であり、聖宗の教育と努力のお陰で、かなり政治について詳しくなっていた。そんなことで、幼い王を援けて、上記二人を交えた三人で宋の侵略を防いだり、国内の維持に努めた。

 内政面では、首都の洪水を防ぐために、仁宗王の名前で、古赦(コーサー)堤防を建設し、他にも、我が国の洪水を防ぐために、多くの堤防の建設に着手した。

 また、仁宗は、1076年に、国士鑑(我が国最初の大学)を建設した。

 1077年に、宋王朝が郭葵(Quách Quỳ)を派遣したとき、趙嵩(Triệu Tiết)は宮廷を完全に掌握し、王国の父である李常傑(Lý Thường Kiệt)が全人民を戦いに動員し、条約を結んだ。千フィートの峰の高さが敵を粉砕した。

 大越国は、国王の周りに勝利の光をかぶりながら戦争から抜け出し、繁栄と文明への道を歩み始めた。

  李常傑像(都祠)

 これは北寧省徐山にある李朝の歴代皇帝を祀る神社です。

 

 李常傑を祀る神社は、都祠、南同村、故郷の阮赦村などに、倚蘭を祀る神社は、聖主寺(国立外大校内)や嘉林の神社に祀られている。

 

 李太宗以降、皇帝は神を指名する立場、という理由で祀られている神社はない。例外は、李神宗(次回紹介)と李昭皇(7歳で女王に推される)だけ、それだけに、別途、李朝が出身地の北寧省に、陳朝は南定省(tỉnh Nam Đình)に陳祠を建立している。黎朝はハノイに神社があったが、撮影禁止ということで、情報が少ない。