二代目の皇帝は、皇子の仏馬皇子(Phật Mã)が太宗になった。

 仏馬皇子が太宗になるには、ちょっとしたイザコザがありましたが、それを無事乗り切った仏馬皇子が太宗に就いた。

 太宗はそのイザコザをきっかけに、官吏たちの再確認のために、毎年、銅鼓神社に集まり、神に仲間意識の確認を誓わせた。上の写真は、銅鼓神社の三観門。

「子として親に孝行であり、官吏としては、王に忠誠でなくてはならない。不誠実な行い、不誠実な者は、悪魔が懲らしめてくれる」が近いの詞でした。

 これは、儒教の教えですね。

 太宗は儒教に篤く、神として祀れるものは多くの人を祀るようにという御触れをだした。当時は、王は総督を任命せず、各州のすべての軍事事務と民事事務は各州の人々に委ねられていた。

 李太祖と李太宗の像

 

 紅河の上流域には多くの首長がおり、その権力が強すぎるため、反乱が頻繁に起った。ここは高凴省(tỉnh Cao Bằng)です。

  チャム軍(チエム・タイン)や愛牢軍(アイラオ)などの隣国も頻繁に嫌がらせをしに来ていて、太宗王の治世中には、侵略が多かった。高凴市とハノイは284kmの距離

 高凴市永光社同貢部落:永光小学校:高凴市教育養成房

 当時、ランソン(Lạng Sơn)には度々反乱を起こしていたヌン族(dân tốc Nùng)がおり、1038年に儂存福(ヌン・トン・フック)が反乱を起こし、自らを昭

聖皇帝と称し、国号をTràng Sinh(チャン・シン)国と名付け、軍隊を率いて襲撃場所を破壊した。

 1041年、儂智高(Nùng Trí Cao)とその母親のア・ヌンはダン・ドー県を占領するために戻り、そこを大歴国と呼んだ。太宗は将軍を派遣して儂智高を捕縛し、昇龍(タンロン)に連れ帰った。

 儂智高を祀る奇岺祠(đền Kỳ Sầm)の巡礼に参加した信者たち。

 しかし、王は彼が父と弟を殺したと思っていたが、今は彼を憐れんで殺さなかったそして、彼を解放し、広源牧(クアン・グエン・ムック)の称号を与え、その後、泰寶(タイ・バオ)の称号も与えた。

 1048年、儂智高は再び反乱を起こし、自分が仁恵皇帝であり、国号は大南(ダイ・ナム)であると主張していたので、太宗は郭盛溢大尉を戦いに送り込んだ。
 当時、儂智高は中国へ援けを求めたが、宋王はそれを許可せず、邑州を攻撃するために軍隊を送り、広東と広西など計8地域を占領した。

 

 当時は、まだ李朝も安定しておらず、あちこちで、いざこざが起きていた。

 ただ、広東、広西なんていう地名を聞くと、今よりかなり中国寄りの噺ですね。