丁朝は、968年~979年で終焉するが、丁部嶺が親族に気を使いすぎ、政略結婚の繰り返しで、逆に恨みを買い、丁部嶺と世継ぎの皇子が殺されてしまい、長く続かなかった。その後、丁朝の将軍であった黎恒(Lê Hoàn)が宋の侵略に備えて皇帝に推され帝位に就いた。そして、前期・黎朝となった。

 丁朝は呉権を起源?に、呉朝の終焉と共に12使君時代を経て、その戦国時代を制した丁部嶺が独立宣言を発して、丁先皇(一番先の皇帝)が誕生した。

 三社の社とは村の集まりを言う。この社が三つ集まって祀ったのが丁部嶺です。

 これがこの神社の三観門です。

 これが本堂になります。神社は、多くが三壇からなっています。

先ず、初めの祭壇にお参りをして、次に祭壇は供物を捧げる祭壇、その次がCung Cầmといい、主神が祀られている場所です。Cung Cầm(クン・カム)とは禁止の宮殿といい、普通は入ることができません。

 

 ここがそのクン・カムです。奥の主神が丁部嶺の像です。多くの像には、脇侍?が並べられています。

 これが主神ですが、御簾がかかり、覗けないことも多い。

 また、主神は守護神や城隍(タイン・ホアン)と呼ばれ、ロンガーイやガーイが安置されていることが多い。

 ここの主神は丁部嶺ですが、雄王時代の将軍は像がなく、前記のガーイやロンガーイが多く祀られています。

 丁部嶺と皇子は早くに殺されてしまい、世継ぎの出来が悪く、直ぐに終焉を迎え、当時は、中国の宋が侵略の時期を狙っており、当時の将軍であった黎恒(Lê Hoàn)が帝位に就き、黎朝を樹立しました。

 黎恒(980~1005年)は宋の侵略を阻止しましたが、やはり世継ぎに出来が悪く、20年そこそこで終焉します。

 黎恒(黎大行)と楊雲娥(Dương Vân Nga、丁部嶺の妻)

 丁部嶺は呉権の置いた古螺の首都を寧平省の花閭(tỉnh Ninh Bình Hoa Lữu)に遷都した。

  その花閭に建立されている丁部嶺と黎恒を祀る神社

 白藤江(Bạck Đằng Giang)で中国軍を追い払った英雄たち。

 呉権と黎恒は宋の軍、右の陳興道(チャン・フン・ダオ、元朝・蒙古軍を追い払う)は、後世の陳朝の英雄。