前回はチャムの話をいたしましたが、今回は歴史の続きを紹介いたします。

 今回は一時的に独立を果たした李責(Lý Bôn、544~548年、前期李朝)の話です

 479 年、宋王朝が王位を失い、斉王朝が後を継ぎ、22年間統治したが、その後梁王朝が斉王朝を引き継いだ。

  南北朝の治世中、中国の官吏が統治するようになり、多くの人々が中国の混乱を見て中国から独立する方法を見つけようとした、それで交州と大陸は必ずしも平穏ではなかった。そのため中国の官吏は、お互いに殺し続けました。

 梁王朝の時代、簫諮(ティエウ・トゥ)は交州の太守として派遣されたが、簫諮は残忍な人物であり、皆を怒らせていた。
それで、李責は立ち上がり、初期李朝を確立する機会を得た。

 太平県(huyện Thái Bình)に住む李責は梁朝(nhà Lương)に勤める官吏でした。当時はラムアップ人(người Lâm Ấp)の全盛期でもあり、越南地域を略奪に来ていた。そこで、勇敢で忠義に熱い人たちが集まり、中国の太守の簫諮と龍編城を護るために戦った。

 李責は李費(リ・ビ)と呼ばれ、元々は中国人の子孫で、祖先は西漢時代に交州に避難してきた。

 543年林邑(Lâm Ấp)軍は日南地区を侵略しに来たが、李責は范修(ファム・トウ)将軍に命じて、九徳()に撃ちに行き、林邑人は国へ逃げかえった。

 その後、李責は南越帝(đế Nam Việt)を自称し、国号を萬春(Vạn Xuân)、年号を天徳(Thiên Đức)とした。

 噺は変わりますが、先日、テレビで長剣(8m)の噺を映していました。

 作製さられた時代は1600年前とか、日本の歴史年表を見ると、592年~710年が飛鳥時代、ここに登場する前記李朝は544年~602年まで統治しました。しかも、日本の年表には、その前は、なんと古墳時代(大和時代)、3世紀頃~7世紀頃という歴史しかありません。

 ここまで何回かベトナムの歴史を書いていますが、前回の塁楼の噺(紀元元年頃から500年頃)、その前の二徴姉妹の噺(紀元40~43年)など、遺跡の真偽はともかく、「越南史略」という文章に書かれています。かなり進んでいたようです。

 

 趙越王(549~571年)

 李南帝が病気で亡くなり、趙光復(Triệu Quang Phục)が越王を自称した。

 その後、571~602年、李一族の李佛子(Lý Phật Tử)が后李南帝を名乗ったが、中国を統一した隋の文帝(Văn đếTùy、602年)に滅ぼされ、それから、交州は隋・唐・宋により、336年間、丁部嶺(Đình Bộ Lĩnh)が独立するまで、中国の支配された。