思うことを。
一進一退。難しいことが世の中にはたくさんあるなと思います。自分自身が想像している以上に世の中には「難しい事」がたくさんあってそれに直面しているいる人にしか分からないことがある。「日本の子供は7人に1人が貧困状態にある」と言われています。実際にそれぞれの家庭の内側は分からないので「それは本当なのか」と感じる部分はあると思います。表に出てこないだけで実際には存在している。そんなことが数多くあるのだと思います。自分自身に直接関係なければ「現実にはそんなことはない」と認識されてしまう可能性はある。潜在的な問題点は当事者にしか分からないから。
芸能界では色々な問題が浮き彫りになる。10年以上前に合ったことを取り上げて「いじめ」があったと表現される。このご時世なのでネット上で調べまくって個人が特定される。特定されたら今度は「加害者」とされる人物が徹底的に吊るし上げられる。「反省」の姿を見せてしばらくの間謹慎するというだけでは許されなくて、立ち直れないくらい徹底的にたたく。それに対して今度はネット上で「加害者」に対しての「いじめ」ではないかという議論が出てくる。永遠に繰り返される。
先日、「8時だよ全員集合」がTVで放送されていた。帰りの車の中で見ただけだが・・・。今考えるとすごいことになっている。セットの準備なども含めて規格外。30年前のテレビ番組はもう今は放送できない。「価値観」が変わってきているから。「面白い」という基準自体も変わっている。我々もそのことに気づかなければ「袋叩き」に合う可能性は十分にある。「体罰」「暴言」「パワハラ」という言葉で自分たちの行動自体も「問題視」されることがあり得るから。「昔許されていたから」ではない。今の価値観に当てはめて考えていくことが求められる。
30年前に許されていた行為。もちろん、それが「問題行為」だったという可能性はある。30年経過してそれを取り上げて「あの時の発言は不適切だったから今謝れ」という批判が出るとして、そこに対して「謝罪」をして活動を自粛することが本当に正しいのかどうか。これも自分自身の価値観だけで考えることはできない。何か別の「物差し」を使ってみていく必要がある。今は「絶対的正義」が掲げられ、「正義の基準」から少しでもはみ出したら徹底的にたたかれる。そこに対して自分たちが何ができるのか。本当に考えさせられる。
授業をする。分かりやすいようにと工夫をしていく。電子黒板を使いながらスライドで授業内容を示していく。これが当たり前になりつつある。グループワークをしてお互いに話をする「アクティブラーニング」が通常の授業の中に取り入れられる。しかし、これに対しても「自分は他の人とコミュニケーションをとるのが苦手だからやりたいない」という意見が出てくるだろう。「平等に扱え」と言われてそれに対して「コミュニケーションの取り方」を再度検討することになるかもしれない。それは恐ろしいほどのエネルギーを要する。でもそれをやらないと「申し出たのに対応してくれなかった」という批判の対象となる可能性が出てくる。
「軽口」をいう。それが「言われた本人が嫌な思いになった」と言われたらこれは「問題行為」となる。練習中にきつそうにしている選手に「ここは我慢して取り組まないと」と声を掛けたら、「苦しかったのにやらされた」と言われる可能性もある。そうなったときに自分たちは何ができるのだろうか。何もできない可能性が高い。誰も守ってくれない。それなのに「要求」だけはされてそれに応じないと「誠実でない」と言われる。
本当に「生きにくい世の中」だと思う。ネット上で他者を完膚なきまでに叩き続ける人は「聖人君子」であって何一つ間違いを犯さないのか。誰もがネット上に「文字」を書くことで自分自身の考え方を示すことができる。このアメブロも同様。炎上商法のように「他者から注目される」ことでお金が入るシステムもある。そこに対して「批判」したところで「今の世の中」が変わることはない。
自分自身が「問題とどのように向き合うか」で見え方は変わってくる。変わったところで周囲の批判は変わらない。私自身が疲れ切っているときもある。今はほとんどの時間が「疲労困憊」になっている。肉体的にも精神的にも。それなのに「○○をやってほしい」という要望は延々と届く。人のキャパとして「限界値」があるのは確か。それでも「やってくれ」と言われる。それは当たり前ではなくて「過剰労働」になる。それでもやらないと回らない。多くのストレスを抱えたとしても誰も守ってくれない。
こんな世の中で何を目標に生活をしていくのか。生きることの意味を改めて考えさせられる。問題と向き合う。それは自分自身の内面にあるのかもしれないなと強く思う。
まとまりませんが。思うことを記録しておきます。