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心温まる感動ストーリーを通じて感動を科学する!

心温まる感動ストーリーや感動研究を通じて、元気や勇気、生きる喜びを高めて欲しい!!(社)日本WEBライティング協会公認ブログです。

キャハハハハーッ!
あまりにも愉快なはしゃぎ声に、ふとふりむくと、なんとも奇妙な格好で自転車にまたがる人がスーッっと通り過ぎた。

ビニールの買い物袋の、手に持つ部分をそれぞれ両耳にひっかけ、風を切って走りぬけてゆく。ビニールの買い物袋は風にはらんで、まるでアドバルーンのように頭の後ろで膨らんでいる。キャハハハハーッ!その笑い声につられてコチラも笑ってしまう。

他にも、ゴミ袋を着た子供を自転車の後ろに乗せている人。大きいビニール製のゴミ袋の3か所に切り込みが入っていて、頭と両腕が出るように子供にスッポリ着せて簡易レインコートにしていた。

そんな日常で見たクスッと笑える出来事をハガキに書いて、毎日雨の日も風の日も一日もかかさず認知症とウツ病を患う遠方の母に送っていた脇谷みどりさん。

送ったハガキは14年間で5000通を超えてました。

平成8年、大分に住んでいた父親から電話が入りました。
「家に帰ってきてほしい!」
突然の申し出に脇谷さんはビックリ。実は、この時、お母さんは重いウツ病を発症していたのです。突然髪の毛を切りだし、火をつけたり、「死にたい」と繰り返す母。パニック生涯、過呼吸、意識混濁・・・。お父さんも疲れ果てて困惑していたのです。

スグにでも助けに行っててあげたい!
しかし、脇谷さんには、重度の障害を持つ、寝たきりの娘がいます。

生まれつきの脳性小児マヒ。どうして自分の子がこんなことに・・・。お医者さんからは「5歳になって自分で座ることが出来たら奇跡だ」といわれました。

しかし、5歳になっても座るどころか首もすわらない。
近所に住む、同じ障害の子供を持つ先輩ママに言われたことは、「あんたやで、あんたが変わらなダメなんや」 
自分の何がいけないの? どうしたらかのこは治るの?

ある時、娘のかのこさんを車に乗せて走っていた脇谷さんは、田んぼに囲まれた道を走る赤い車を見てかのこさんに語りかけました。
「きっと、あの車には幸せな家族がのっているんだろうね。私もかのこを産むまでは幸せだったのに」
自分で吐いた言葉にハッとし、電撃が走ります。
「わかった!かのこ。私だ、私やったんや。お母ちゃん、これから変わるから!」

その時脇谷さんがわかったこと、それは、「かのこさんの病気が治らなくては幸せになれない」と思いこんでいたことでした。

もし、この子が治らなくても、世界一幸せな娘にしたい。そして家族ひとりひとりが輝いていける、世界一幸せな家族になろう!

それまでは、かのこさんが入院すると、子供は病室に入れない病院の規則があったので、小さいころも兄はひとりぼっちでお留守番。なかなか手をかけてあげられない状態でした。でも、お兄さんはみずから3歳で泣くことを辞めたと言います。泣いてもおかんは戻ってこない。大変なんや。自分がしっかりしなくては!そう思っていたそうです。

脇谷さんは、家族に支えられていた事に気付きます。感謝の想いが沸き上がってきました。脇谷さんは、もともと目指していた童話作家の道へ進もうと決意します。24時間介護でしたから、かのこさんの隣にあるアイロン台を机代わりに、執筆活動を始めました。

そんな時に、突然の父親からの電話。帰ってきてほしいと言われても、かのこさんを連れて大分にはとうていいけません。

何か自分にできる事はないだろうか? そこで、脇谷さんは、クスッと笑える出来事をハガキに書いて、毎日大分のお母さんへ送ることにしました。娘から届くハガキを目にし、徐々に大分のお母さんに変化が起こります。ハガキを出しつづけて4年目、大分のお母さんから電話がきました。

「お医者さんが、病院にもう来なくてもいいですよって言ったの」
そうです、いつの間にか、うつ病も認知症も改善されていたのです。

77歳になるお母さんはほほ笑みながら話します。
「おもしろい絵手紙を毎日読むうちに、マイナスの事を考えなくなれたの」

脇谷さんは「とべパクチビクロ」という絵本を出しました。これに負けじと、お母さんまで本を出すまでに!

かのこさんのお兄さんは、今は障害者児童の教育に携わっています。「かのこさんがいてくれたから、自分の道を開くことができました。前世でも、今世でも、そして来世もきっと一緒に切磋琢磨していく縁深き戦友なのだと思います。」とかのこさんへのあたたかい想いを語っています。

一人一人が輝き、前に向かって進めるのは、かのこさんがいたからであり、お互いを思いやる気持ちが力になったからなのですね、きっと。

参考資料:http://www.chugainippoh.co.jp/interviews/konomichi/20120605.html
書籍「希望のスイッチは、くすっ うつ病の母に笑顔がもどった奇跡のはがき」脇谷みどり著
自分の気持ちや行動がうまく伝えられなかった時、悲しい気持ちになるのはまだ人というものを信じているからかもしれません。

おそらく一本の電話がなければ、少女は大人や学校を信じられなくなってしまっただろうと思います。

まだまだ朝は冷え込む時期です。今年度の学年末テストを控えて、少女はちょっと緊張しながら学校へ向かっていました。
私立の進学校に通っている少女は、まじめな性格もあり、ひとつひとつのテストや課題に一生懸命取り組んでいます。特に今回は1年で1番重要な試験でもあるので準備を怠りませんでした。

通学途中の道端で、少女の前に1人のおばあさんが倒れてうずくまっていました。病気か事故か…と思いながら少女が近づいていくと、おばあさんの傍らには大きな荷物が落ちていました。どうやらバランスを崩して荷物ごと倒れてしまったようです。余りの痛みに動けない様子のおばあさんを介抱しながら、携帯電話で救急車を呼び、一緒に待っていました。

その間、試験に遅刻してしまう可能性が高いため、学校へ連絡し現状と遅刻の報告を行いました。
学校へも連絡がついたため、おばあさんに付き添っていることにしました。

そして救急車が到着後、事情説明も兼ねて一緒に救急車へ乗り込むこととしました。
おばあさんは命に別状はなく、足を捻挫しているだけで済みました。おばあさんはお礼と学校へ遅刻してしまったことへの謝罪がありましたが、すっかり落ち着いたおばあさんを見て、少女は一安心して笑顔で病院を後にしました。

おばあさんが無事で本当に良かった…清々しい気持ちで学校へ到着すると、何と少女は学年末テストを受けることができないと学校側から言われてしまったのです。

「きちんと試験開始前に事情も説明して、遅刻の連絡を入れているのに、なぜ試験を受けることができないのですか?」

彼女は先生に向かって問いかけました。
先生は何をいまさら…というように理由を説明します。

・どんな理由があれ、自分が判断したのだから自分都合の遅刻に追試があるわけがない
・全く知らない、親族でもない人が怪我をしたからということで、あなたが試験を受けられないという理由にはならない
・このことを許可したら、世の中全ての人が怪我をしただけで追試をしなくてはいけなくなる

少女は頭が真っ白になりました。
ほめられることを期待していたわけではないけれども、倒れている人を助けることは学校ではおかしい行動だったのだろうか…。

しかし、少女はもう一度先生へ疑問をぶつけます。

「では、倒れているおばあさんを放っておけばよかったのでしょうか。」

・救急車を呼び、あなたは学校へ向かえばよかった
・救急へ同乗しなくてはいけないような状況、怪我だったのだろうか

どれだけ少女が訴えても、彼女が言っていることは理由にならないそうです。先生の理屈はわかります。でも目の前で倒れた人を放っておけない…少女は悔しさで泣きそうになりながら自分の気持ちを伝えますが、遂には諦めて何も言えなくなってしまいました。

その後、帰宅させられました。自分がどんなに説明しても先生を納得させることはできない…少女の気持ちは沈みます。

その日の午後、自宅へ学校から電話がかかってきて、今から特別に学年末テストの追試を行うのですぐに学校へ来るように、とのことでした。
急なことで何が何だかわからないまま、しかし大事なテストを受けることができる喜びに包まれながら学校へ向かいました。
特別に別室が設けられて、少女のために試験が行われました。
少女は何とか無事に学年末テストを受けることができ、準備の甲斐もありできも悪くなかったと思います。

そして、何より少女が嬉しかったのは…

おばあさんが学校へ連絡してくれたおかげで追試が行われることになったそうです。
実はおばあさんはこの学校出身で、学校生活や試験なども厳しいことは知っていた上で、少女に助けられたこと・人として素晴らしい行動をしてくれた少女を認めてあげてほしいこと・勉強やルールも大事だけれども、人生にはこのようなことが大事だと先生たちもわかっているであろうこと…何度も何度も電話口でお願いをしてくれたそうです。泣いてしまいそうになるほど嬉しくて、感謝しました。

自分のしたことは間違っていなかった!

今するべきことをしたはずだったのに、学校や先生の理屈では違っていたことに一時は打ちのめされていた少女は、自分の行動が間違っていなかったことが証明されたように思えました。

大人になっていく過程で、子供たちはルールを知り、守れるようになる練習をしています。
ただ、今ここにあるルールが本当に正しいのか…
もしかしたら子供たち自身がその経験で感じている矛盾の方が正しいのではないのか…
そして大人はその矛盾をバカにせず耳を傾ければもっといいルールができるのでは…

大人が信じてもらえるかどうかは、子供たちの言葉をしっかり受け止められるか…ではないでしょうか。

参考資料

http://cadot.jp/impression/5305.html/4
ヨーロッパ、特にイギリスでは広く知られている「アナトリアン シェパード ドック」という大型犬は、飼主に忠実で見知らぬものへの警戒心は非常に強いことで知られています。


その生後半年ほどのアナトリアンシェパードが、電車にひかれ重傷を負っている…と鉄道会社から連絡をうけて動物病院に運ばれてきました。瀕死の重傷を負っていましたが、努力の甲斐があって一命は取り留めることができました。
ですが、損傷が激しかった左の後ろ足は残念ながら切断するしかありませんでした。


獣医師たちはそもそも不思議な気持ちだったようです。アナトリアンシェパードは警戒心が強く慎重な性格のはずなのに、わざわざ電車に近づくだろうか…治療の過程や後に判明したようですが、どうやら飼主に虐待をうけており、わざわざ線路にくくりつけられていなければ、この犬がこんなことにはならないだろう、ということでした。


大型犬が足を失うと、成犬になった時に体重を支えられず、寝たきりになってしまう可能性が高いのだそうです。となると、この犬を引き取りたいといってくれる人が現れる可能性はかなり低くなってしまいます。引き取り手がなければ殺処分となってしまいます。
そこで保護団体は何とかこの犬を救おうと「ハチ」という名前をつけ様々な方法で飼主の募集を始めました。


募集をかけて半年…あるドックトレーナーの男性が飼主募集の記事を見かけました。
既にこの男性の家は犬を飼っていて、そして小学生の男の子、オーウェン君がいました。


オーウェン君は、全身の筋肉が常に硬直してしまう「シュヴァルツ・ヤンペル症候群」という先天性の難病でした。世界でも100例ほどしか報告されておらず、治療法も解明されていない病気です。


小学校にあがったオーウェン君は、自分自身と周囲の違いに悩んでいました。特にクラスの友達に「オーウェンはどうしていつも変な顔をしているの?」とからかわれることは何より嫌だったそうです。病気により顔の筋肉も硬直していて、目をあけるためには口を尖らせたり…と健常者から見ればおかしいかもしれませんが、オーウェン君はそれでも学校でがんばっていたのです。


人と違う自分を見られたくない…と他人の視線をさけるようにオーウェン君は外出することを嫌がるようになり、学校も休むようになり、どうせ病気はよくならないから…と薬を飲まなくなってしまいました。


男性は息子やすでに自宅にいる犬について考えながらも、「ハチ」に強く引きつけられていました。妻と相談し一度ハチに会いに行くことにしました。ハチは虐待がもとで人間不信に陥っており、本当に飼うことができるかどうか…とりあえず2週間預かって試してみることにしました。

ハチを自宅に迎えた日、ハチは警戒して家の中に入ろうとしなかったので、まずリードを離して家の中を自由に探索できるようにしたところ…ハチは全く知らない家なのに一目散にオーウェン君の部屋へ走っていきました。慌てて両親がオーウェン君の部屋へ行くと、オーウェン君の膝に頭をのせて甘えてくつろいでいるハチの姿がありました。


ハチはその日から片時もオーウェン君のそばを離れず寄り添っています。そして、そのハチの存在がオーウェン君の心に変化をもたらすことになります。ハチは足のために薬の混じった食事をとっています。飼主に虐待され、片足も失くし、それでも前向きに生きようとしているハチの姿を見てオーウェン君は再び薬を飲み始めました。


オーウェン君は失いかけていた優しい笑顔をハチと共に取り戻しつつありました。そんなある日、彼はオーウェン君に語りかけました。
「ハチは虐待をうけ、足を失うほどの怪我をして人間不信に陥るのは当然だ。そんなハチが自らオーウェン君と友達になろうとしてくれたのは、どれだけの勇気がいることだっただろう。」
ハチは勇気を出して自分を信じてくれている。自分はどうだろう…他人の視線を避け、勇気を持てず、後一歩を踏み出すことができない。


「ハチを連れて散歩にいきたい」
オーウェン君は自分の意思で外に出ることを決意しました。
オーウェン君ではなく、ハチに引きつけられてたくさんの人が集まりました。三本足のハチに子供たちが「かわいそう」と言うと、オーウェン君は自信をもってきっぱりとハチがどんなにすごい犬か話し出しました。


ある子供のお母さんがオーウェン君に言いました。
「そんな犬をしっかりと散歩させているあなたもすごいわよ。偉いわね。」


他人と関わりたくない、目も合わせられない…そんなオーウェン君は、ハチと共に人と関わる喜びを知ることができました。
それからオーウェン君は、ハチと様々なところへ一緒に行き、いろいろな人に大好きなハチの話しをすることが楽しみになりました。


そして、たくさんの人が集まるドックショーに出場するようになり、世界最大のドックショーである「クラフト」の犬と人間の友情に与えられる賞を見事受賞しました。


その後、オーウェン君は毎日学校へ通うようになり、ハチとの友情も変わらず続いています。


「ハチと一緒に世界中のいろんな所へ行ってみたい」
生きることに絶望感しかなかった少年が、生きることを諦めさせられそうになっていた犬と共に、未来を夢見ることができるようになったのです。過去のオーウェン君の姿はもうどこにもありません。






参考資料

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/140501_2.html

www.koinuno-heya.com
「絆」…東日本大震災以後、復興への希望を込めてこの言葉がボランティア・支援活動に使われてきました。本当に困っている人を支援するため、手に手を取り合って明日を拓いていくにふさわしい言葉です。

とある小学校で、深い友情の「絆」で結ばれた子供たちがいました。

彼女は産まれて間もなく「脳室周囲白質軟化症」という脳性まひの一種にかかり、手足や首に力が入らず歩くことができませんでした。そして小学校へ入学する時、両親は障害を持っていることも考えつつも公立の小学校へ入れることとしました。普通学級と支援学級を往復しながら学校生活をスタートさせたのです。1学年15人ほどの小さな学校の中で、彼女は楽しそうに通っていると思えました。

実際、登校時に車いすが用意されていたり、移動の時に車いすを運んだりなど同級生たちも自然と彼女を助け、一緒にいることが普通になっていたのです。1・2年生が過ぎ、みんなが3年生になる頃、2階に教室が移る事になったため、彼女は授業を支援学級で受けることになり、ほとんどをそこで過ごすことになりました。それでも休み時間など2階から1階に友達が降りてきて楽しそうに遊んでいたのです。

そのころ、彼女が書いた絵がコンクールで入選し、学校の集会で感想をこめた作文を読むことになりました。

同級生、学校の先生、両親…「友達と遊ぶのが楽しいです」という彼女の作文を微笑ましく聞いていたのですが、彼女の作文を読む声が急に途絶えました。

「ひとりだとさびしいです」。
涙ながらに彼女は言いました。

「え?」というのが同級生たちの本音のようでした。むしろ彼女がみんなともっと一緒に遊んだり、活動したりしたいと思っているとは感じていなかったそうです。

当時、彼らの小学校では、学校近くの河原での川遊びがブームでした。学校側も教育の一環として川遊びを取り入れていたのです。もちろん、彼女も河原に一緒に行っていました。しかし、川へは3mほどの崖を、ロープを伝って降りなくてはなりません。彼女は崖の上からみんなを見守っています。休み時間や合同授業の時同様、みんなが自然に彼女の車いすを押していましたし、川からあがってはとれたものを見せていました。

小学校3年生、自分の身体に障害があることはわかっていても、本当はみんなと一緒に授業を受けたい・崖を降りて川で遊びたい、そう思って当然です。しかし、彼女はそれを表に出さず一人で孤独を募らせていたのです。

彼女の本心を知った同級生たちは、彼女の願いを叶えたいと先生も含めて相談をしました。手足に力が入らない彼女をおんぶして崖を降りることは大人でも難しいことでした。先生と同級生たちの姿を見て、校長先生はその想いを何とか実現させてあげたいと思いながら河原を歩いていると、崖のはしに川に降りられるような階段をつくれないか思いつきました。早速地域の土木振興局へ相談に行き、現状と生徒たちの想いを伝えることにしました。

同級生たちも自分たちができることを…と、ひとりひとり階段を設置してほしい理由と希望を書いた手紙を校長先生に託しました。

「彼女は我慢していますが、私たちも一緒に川に入りたいです」
「彼女は一度も川に入った事がありません。残り3年間で一回でもいいので入りたいです」

市との予算の兼ね合いもありますが、前向きに検討してもらえる返事をもらい、実際土木局の担当の人が川や崖の調査に入りました。

みんなもうすぐ階段ができると、そのために彼女のために何かできないか…夏休みを使ってある物を集め始めました。先生の許しをもらい、2学期の総合学習の時間を使い完成させました。約150個のペットボトルで作られた「どんどん行け ゆうきゴー」と名付けられた筏(いかだ)です。彼女がゆったり乗れるように背もたれ・肘かけがついているので、運動会の時なども活躍したのです。

しかし…10か月経っても、年度が変わっても工事は始まりません。工事担当の課長が異動になっていたのです。
みんなは5年生になっていました。手紙を書いて約2年、みんなの夢を託した「ゆうきゴー」はその出番を待ち続けています。

ある日、県から学校へ工事の着工をすると連絡が入りました。みんなはやっと筏をもって川へ行けると喜びました。
白紙となっていた工事が着工できることになったのは、子供たちからの夢を託した手紙でした。偶然後任の課長が発見し、予算の確保をして実現にこぎつけたのです。

いよいよ工事が始まりました。工事担当者は、川・河原・崖は自然そのままで、階段をつくる以前に道路もつくらないと通ることができないことに気づきました。ただ、そうすればこの工事は赤字になります。素直にやり直せば工事は一旦中断してしまいます。彼女たちの6年生の夏は間もなくやってくるのです。工事担当者は赤字覚悟で、自分も自分の子供たちもお世話になった小学校へ恩返しをすることを決意しました。

そして、いよいよ待ち焦がれた階段が完成しました。
「川へ入るのは初めてです。ワクワクします。」
そう挨拶をしてみんなで筏を持って川に入りました。
「川の水がこんなに冷たいとは知らなかった!」
彼女だけでなく同級生の願いが叶った瞬間です。

あの時、彼女が自分の気持ちを伝えてなかったらどうだったでしょう。
同級生たちは、彼女がいなかったらわからなかったことがたくさんあって、やってみないとわからない、みんなで感動することができた…と言っています。

「自分自身と友達の一生の宝物です」
彼女は笑顔でそう振り返る先には、友達をもつことの大切さを共に感じた仲間がいます。
そこには確かな「絆」があります。

参考資料
www.youtube.com/watch?v=CovmiUCL8Fs

「人生は冒険だ」…昔から伝わる名言です。私たち人間は、生まれた時から新しいことにチャレンジし、冒険を繰り返して大人になっていきます。ただ、その「冒険」を自分自身の障害によって諦めている人たちがいるのも事実です。


視覚障害を抱えている熊本盲学校の生徒たちもその中の一人だったかもしれません。その中で学校は、助け合うこと・仲間をつくることなどの指導の一環としてアンサンブル部を創設します。そこへボランティアの指導員としてプロの打楽器奏者である冨田さんが招かれました。


アンサンブルとは…2人以上が合奏、合唱することです。熊本盲学校では自由な楽器の組み合わせでアンサンブルへ取り組むことになりました。冨田さんは週に1回、学校へ通って指導をしていくことになりました。4か月後には特別コンサートを行うことも決定していました。


しかし、部員たちは全盲や弱視で楽譜をよむことがきません。冨田さんは、それぞれのパートにわけて音源を録音し、それを聞きながら楽譜を覚えるようにしました。
さらに口頭での指示は目の見えない彼らにはわかりづらいものがあります。「バチは下から3分の1を持つ」は実際にどこを持つのか、鍵盤の位置はどうなっているのか、1人ずつ手に取って指導をしていくことになりました。


冨田さんは指導を引き受けてから心に決めていたことがあります。
「自分自身は健常者で視覚障害のある部員たちの本当の苦しみはわからない、だからこそ普段通りに指導をしよう。障害があるからといって優しく指導するのは彼らに失礼だ」


当然、指導はいつも通り厳しいものとなりました。週1回の指導後は必ず取り組むべき課題が設定され、部員たちは授業以外でも必死に課題をクリアするべく取り組みました。


ある部員は音楽経験があり、みんなが課題に必死に取り組んでいても自分はできるから…と先に帰宅することもありました。冨田さんが参加しての合同練習の時、練習の成果がみえつつもどうしても音が合いません。出来るはずの部員が足を引っ張っていたのです。


課題は技術を磨くものではありますが、アンサンブルには協調性が不可欠なのです。その生徒はアンサンブルに参加することが全くできませんでした。その部員は自分に足りなかったものを自覚すると共に、他の部員たちもアンサンブルは気持ちをひとつにして演奏することが大事であることを学んだのでした。


アンサンブルは指揮者がいません。
健常者であればアイコンタクトで演奏を始めることができますが、彼らにはそれができないのです。またバチや声掛けなどは減点されてしまうのでこれもできません。冨田さんは彼らが健常者よりも聴覚が発達していることを利用して息づかいで聞き分けてタイミングを合わせることにしました。視覚障害の壁をまたひとつ乗り越えることができました。


創部4か月後のコンサートを部員たちは無事に終えることができ、ホッとしたのもつかの間、冨田さんは部員たちに言いました。
「全日本アンサンブルコンテストに出場する」


これはアンサンブルを行う全国の精鋭たちが集まる大会です。
もちろん、障害者の出場など聞いたこともありません。この目標へ向けてさらに練習は厳しさを増したのですが、自分たちが障害者であることや想像することもできない高い目標、来年卒業する自分たちの将来…不安を覚えた部員2人が退部を申し出ました。


冨田さんは彼らの気持ちもわかりつつ、1通の手紙を彼らに読みました。
コンサートに来てくれたある少女からの感謝の手紙でした。そこには部員たちの努力へ思いをはせつつ、自分がどれだけ演奏に感動をしたかが感謝の言葉とともにつづられていました。


障害者だからと悲観的になっていた自分たちが、誰かに認められ必要とされていること、今確かにここには自分たちの居場所がある…様々な迷いや不安は消え、熊本支部予選に向かいました。熊本盲学校は見事金賞に輝き、全国大会へすすむこととなりました。


創部以来のリーダーが病に倒れました。
冨田さんは病を抱えた部員に無理をさせたことで自分を責めたようです。彼の母親にも謝罪をしました。リーダー不在でアンサンブルが成立するか、全国大会へ出場するのか諦めかけていた冨田さんに、彼女はしっかりと伝えました。

「どうか続けさせてやってほしい。」

息子が明るくなり、イキイキと演奏をしている姿をみて、この流れを断ち切ってしまうのは息子自身が死ぬことよりも辛いことだと母親として感じていたのでしょう。


全国大会へ向けてさらに厳しく練習を積む中、部員たちは冨田さんの誕生日にメッセージカードを渡しています。

「プレゼントは全国大会の金賞です。」


全国から集う精鋭たちの中で、視覚障害者であることなど忘れてしまうほどの見事な演奏を披露し、熊本盲学校は初出場ながら金賞に輝きました。


部員達はもちろん喜びましたが、それ以上に得たものがあったと言います。

「金賞はその場限りだが、友情は一生残る」

「信頼関係を築けたことを誇らしく思う」

一足先に卒業をしたリーダーも同じように感じています。

「今でも仲間として繋がっている」


冨田さんは自身の著書、「息を聴け/熊本盲学校アンサンブルの挑戦」出版前にこのように言っています。
「これは健常者と障害者の美談やサクセスストーリーではありません。音楽という目に見えない風景を通じて、人としての生き方や考え方といった漠然としたものを、彼らと必死に探ってきた『冒険記』であると私は感じています。」


冒険の先にどのような光景が広がっているのか…きっと再び新たなスタートをきる勇気が備わっているに違いないでしょう。




参考資料
www.bandpower.net/soundpark/essay/01_relay/12_tomita.htm
www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/14th/05-425.html