ここから私のグリーンカードを失くした話は予期しなかった結末を迎える。

 

月曜日。

目が覚めてすぐ

昨日領事館に仕掛けたので、何かが動くはずだ。領事館から面談のことで連絡があるだろう。グリーンカードだって今日届くかもしれない。

 

11月に、主人の出張についてアメリカを出ることになっているのだが、グリーンカードがないからどうなるのか話している間に、口論になった。(お前が失くすからこんなややこしいことになるんだ。私だって無くしたくて、無くしたんじゃない。十分罰せられた気分なのに、云々)

グリーンカードが無いと今後のアメリカ出入国にも支障をきたす。新しいのを発行するには、手続きに2ヶ月以上かかるとネットには書いてある。その間外国旅行をするには、再発行中と言うことを示す許可書がいる。その手続きもしないとならず、いづれにせよ、いつもらえるのかわからない。次の11月の旅行までに間に合うか?不安だらけだ。改めて大変なことになってしまったと、つくづく自己嫌悪。でも何度考えても、パスポートに入っていたはずのグリーンカードがいつからなくなっていたのか、ましてやどこでなくなったかなんて、サッパリ見当もつかない。

 

主人とのフェイスタイムを切って、さあ、今日は何をしようか、と思った。今日も母か私一人しか出かけられない。届くまで1日中待つのだ。毎日。特に行きたいところもなかったので、出かける気にならず、領事館の書類を手に取って、もう一度見直すことにした。読み直すと、面談に来る前に警察に紛失届を出すように、とあり、どこの警察に届けたか記入する欄があった。これはまだやってなかったので、警察に電話することにした。どこの警察に届け出を出すか。やはり落とした可能性の一番高いところ、成田空港しかないだろう。もう電話したからないとは思うけど、届けを出さないといけないらしいので、ネットで成田の警察を調べた。成田国際空港警察というのが出てきた。遺失物の電話番号があったので、かけてみた。「グリーンカードの紛失届を出したいのですが。8月22日にサンフランシスコから入ってきて、9月17日に成田でグリーンカードを失くしたことに気が付いたのですが。どちらかの日に失くした可能性があります。」と言うと、「少々お待ちください。」と言われて、しばらく待たされた。またその男性が電話口に出て、「8月22日にグリーンカードの落し物があったようで、こちらに届けられています。」と言った。ええええ?と思わず電話口で叫んだ。「ただ、手元にないので、実際そちらの物かどうか確認してみます。お名前と、生年月日をお願いします。」名前と生年月日を言うと、「しばらくかかると思いますので、折り返します。」と言われ、電話番号を言った。それから待つこと10分。待ってる間は、信じられない気持ち。もし私のだったら、日本に入ってきた日に成田空港で落として、ずっと警察のところにあったことになる。違ったらぬか喜びになるので、誰にも言わないで待った。

10分後、電話が鳴って、すぐ取った。カードにのっている名前と生年月日が一致している、と言う。あちらも気のせいか、少し興奮しているような声だった。「ああ、よかったあ!探してたんですよ!飛行機に乗れなかったんです。」と私も思わず饒舌になってしまっていた。「ああ、そうですか。よかったですね。」とあっちが落ち着いた声で言う。先方は郵送する、と言ったが、私は今から取りに行く、と言った。携帯を切ってから、すぐ主人をはじめ、子供たちにテキストした。カリフォルニアは夜だったので、主人は返事がなかった。しかし、時差でまだ起きていた娘からは、「ええ?あったの?よかったね!」という返事が来た。日本の娘からは「ええ?!」という反応。窓口は4時まで、という事で、急いで身支度をした。

そして、玄関でヘルパーさんと何やら話し合っている母を寝室まで呼んだ。「座って。」と椅子を指した。母は座りながら、「どうかしたの?」と不安そうな声を出した。「あのね、グリーンカードが見つかったの。警察に紛失届を出そうと思ったらね、あったって。」と言うと、母は最初びっくりした顔をして、「ああ、よかったねえ!」とほっとした顔で言った。母も一緒に待ってくれていたのだ。これは母にとっても、ただひたすら待つ日々の終了を意味する。「今から成田に行って、取ってくるね。」と言って家を出た。

 

一人身軽だったし、気分も高揚していたので、少し冒険をする気になって、初めて日暮里からスカイライナーに乗ってみた。こっちの方が本数も多いし、その場で切符も買えるし便利だな、と思った。行きは。帰りは日暮里から山手線に乗らないとならないので、面倒だった。やっぱり新宿発の成田エキスプレスのほうが一本で便利かも。

 

飛行機に乗り損ねてから一人で行動している。今まではずっと一緒に娘が一人か両方ともいた。それが楽しかったし、寂しさを感じたことはなかったし、ずっとそれが続くことを望んでいた。でもコロナが終わって、娘たち二人は家から出て行った。これからは、こうやって一人で行動することが多いのだろうな、と今回強く感じた。一人は、孤独ではあるけれど、解放感もある。こういう、気分は軽いけれど、どこかちょっぴり寂しい、と言う気持ちに慣れないといけないんだろうな、と窓の外の景色を見ながら思った。

成田第1ターミナルに着いて、どこに行っていいかわからなかったので、そこに立っている警察官に聞いた。建物の外に警察署がある、という事だった。


警察官が言ったとおり、飛行場から近いのだけど、ちょっとややこしい所にあった。受付に案内され、遺失物のところに行き、電話で告げられた番号を言って、パスポートを見せて、あっけなくカードを手にすることができた。こんなところにあったのか。

失くしたグリーンカードが戻ってきた。

 

色々反省点がある。

日本に入ってきた日に失くしていたことに、ぎりぎりまで気が付かなかったこと。→パスポートとグリーンカードは同じぐらい大切なもので、どちらを失くしても飛行機には乗れない。パスポートをチェックするときは、グリーンカードも確認すべきだ。

最初から警察に電話しなかったこと。→なぜか、日本の警察はそつがないので、グリーンカードや、パスポートの落し物があったら、大使館に連絡すると思っていた。その人にとって大切で、絶対探しているのがわかるだろうからだ。また、大使館にとっても、自国の重要物品が紛失したままになっているのは、どうでもいいことではないだろう。悪用されるかもしれないし。だから良好な国際関係を保つためにも、グリーンカードや、パスポートの落し物は、日本の警察は大使館に連絡するだろう、とたかをくくっていたのが間違いだった。

 

すぐ飛行場に戻って、電源のついている机といすに座って、航空会社に電話し、席の予約をした。「グリーンカードを失くして、9月17日の飛行機に乗れなかったものですが。グリーンカードが見つかりましたので。」と説明した。そして、3日後の木曜日に同じ便を予約した。携帯を切ったとき、これで終わった、とため息が出た。

 

家に戻って、母の家に泊まるのは今夜で最後であることを告げた。最後の2泊は娘のところでする、と。母は寂しそうな顔をしたけれど、止めなかった。その晩は、母と最後の晩御飯を外で食べた。

 

 

母との最後の晩御飯はニラレバと餃子。

 

家に戻ってメールを見たら、領事館から水曜日の朝8時に領事館に来るよう、メールが入っていた。面談だ。返信でキャンセルした。水曜日は今から二日後だ。もしグリーンカードを取り戻していなかったら、この日に領事館に行って、面談して、書類を提出して、何日か後に連絡が来て、また領事館に取りに行かなくてはならない。それから飛行機の切符を予約するのだ。この方法だと何日かかったかわからない。

 

そして、長い1日が終わった。

 

主人が送ってくれた昔のグリーンカードは今日も届かなかった。

 

ここからは、普通に、飛行機に乗るまでに3日間ある人の行動なので、簡単に書くことにする。

飛行機の予約を3日後にしたのは、行く前に娘のマンションに2泊したかったからだ。娘とゆっくり話して、ご飯を食べて、それから行きたかった。(母なしで)

火曜日から、出発する木曜日まで、1日に何度もグリーンカードとパスポートがちゃんとあるか確認した。この2つさえあれば、アメリカに戻れるのだ。

火曜日は、母の家を出て、娘のマンションに行き、数日前にもらったカギで入った。娘は大学とバイトがあるので、夜まで戻らない。部屋に入った途端、掃除しなきゃ、と思って、その日は溜まった洗濯物と掃除をして過ごした。結局家事しただけだけど、なんとなく開放感を感じた。

夜7時ぐらいに娘が戻ってきて、二人で駅のそばの定食屋さんに行った。私の娘たちは、二人とも「何食べる?」と聞くと、「ごはんがいい」と答える。

 

また娘とご飯を食べながら、おしゃべりする機会を持てた。グリーンカードをなくしてから、嫌なことばかりじゃなかった。こんなご飯、アメリカではめったに食べられない。こうやって儲けたこともある。

 

次の日、日本での最後の日だ。朝、娘を送り出してから娘の冷蔵庫に食べ物を入れておこうと思って、買い物に出、もう食べ納めと思って、駅中にあるケーキ屋さんで、ケーキを買った。

こういうケーキ、アメリカではどこにも売ってない。昔と比べたら甘いものもあまり食べなくなったけれど、次いつ食べられるかわからない、と思ったら食べておこうと思った。

 

夜娘が帰ってきて、娘の希望でパスタ屋さんに入った。

私はパスタ屋さんに入ると、必ず、アメリカではない、たらこか明太子のパスタを注文する。アメリカではよく韓国系のスーパーに行くので、明太子は売ってるけれど、たらこはめったに売っていない。それに、明太子も たらこも ものすごく高い。特にたらこ。だから、生で、スパゲッティーに大量に入れるなんて考えられない。それに、アメリカのレストラン業界の規則なのだと思うけれど、生のたらこはたぶん出したらいけないのだと思う。日系のパスタ屋さんに行って、たらこスパゲッティーを頼んでも、必ずたらこに火が通してある。

だから、たらこスパゲッティーも食べ納めだ。

 

娘とは、これからの将来の話をした。深刻な雰囲気で食事が終わった。娘だって、この楽しい留学生活が永遠と続くわけではないことはわかっている。来年になったら終わるわけで、そのあとはアメリカに戻って、大学を卒業しないとならない。そのあとはどうするつもりなの?そう聞くと、いつも明るい娘の顔が曇る。毎日が楽しくて、留学生活を満喫しているのは親としても、やった甲斐があったからうれしいけれど、この生活には終わりがあって、これからアメリカで暮らすのか、日本に戻ってきたいのか、娘に決断してもらわなければならない。後者の方が難しい。そして、親から独立しないとならない。それは娘にとっては、これは深刻な問題だ。

いつまでも親に面倒を見てもらうわけにはいかない、真剣にどうしたいのか考えてね。そういって、締めくくった。娘は真剣に考えているような、少し不安げなような表情を浮かべていた。

 

そして次の日、飛行機に乗る日だ。飛行機は成田で午後5時発だったけれど、グリーンカードのことがあったので、早めにつくように、最後に娘に朝ご飯を作ってから、10時半にマンションを出た。娘はまだ家にいて、部屋の中から私に手をふってくれた。

コロナのせいで、成田空港に行くバスがまだ出ていない。今年は毎回成田エクスプレスにお世話になった。乗ってみると、バスとそんなに値段が違わないし、電車なので、時間は正確に着くし、特に行きは時間通りに着きたいので、今はバスよりもいいかも、と思っている。これも、コロナがなければ知らなかったことの一つだ。

 

そして、私は出発時刻の4時間前に成田について、一番前の列に並んで、チェックインの時にグリーンカードとパスポートを見せた。少し緊張した。何か質問されるかと思った。けれど、何の問題もなく、いつものように、すんなりとチェックインできた。いとも簡単に。ほっとした。やはりグリーンカードの存在は大きい。

 

それから空港内の喫茶店に座って飛行機が出発するのを待った。一人だったけれど、さみしいというよりは、長い旅がやっと終わった、という気持ちの方が強かった。娘と一緒に帰るはずだったけれど、最後は一人で終わったんだ。

 

主人が送ってくれた期限が切れたグリーンカードはどうなったか?

飛行機に乗る日、荷物が動いたのだ。なんと「荷物はメンフィスを出ました。」というメッセージが、朝起きてマンションでメールを見ていたら入っていた。メンフィス!テネシー州だ。そんなところに。しかも、東京のどこかにあるはず、と思っていたけど、まだアメリカを出ていなかったのだ。もしグリーンカードが見つかってなかったら、まだずっと待っていた。そう思うとなんだかぞっとした。

数時間後、アンカレージ(!!)に荷物があるとの連絡が来た。Google Mapで調べたら、アメリカにはアンカレージという街が2つあって、一つはアラスカ。もう一つは、テネシー州の隣の州、ケンタッキーにもあるようだ。最初アラスカかと思ったけど、たぶんケンタッキーの方だろう。

日本行の飛行機が出た場所か?

 

主人が速達で送ってくれた、昔のグリーンカードは、私が紆余曲折した挙句、やっとアメリカ行きの飛行機に乗る日にアメリカを出たのだ。

 

そして、私の乗った飛行機はアメリカに着いた。

先に戻った下の娘の大学の入寮日には間に合わなかったけれど、誕生日には間に合った。2つとも日本に行く前から色々計画していたのだ。誕生日は、計画していたプレゼントも渡したし、娘の一番好きなレストランで主人と3人で食事もできたので、とても嬉しかった。飛行機に乗れなくて、日本の滞在が2週間近く伸びたけれど、上の娘に何度も会って語らうことができたし、一人でカフェやレストランに入ることもできた。何年も会っていなかった友だちにも会うことができた。秋の日本を20年ぶりに見ることができた。わびしかったけど、悪いことばかりじゃなかった。

 

グリーンカードはまだ母の家に着いていなかった。

飛行機を降りるとテキストメッセージが一気に入ってきて、中に「東京に入りました。」というメッセージがあった。

母にアメリカに到着したことと、もうすぐパッケージが着くと思う、とテキストした。

 

実際、やっとパッケージが母の手元に着いたのは、アメリカに着いてから3日後だった。母にアメリカの自宅の住所を書いた封筒を渡しておいたので、それに入れてグリーンカードを送り返してくれるよう、改めて頼んだ。これはいつ届くだろう。注視したい。

 

これで、私のグリーンカード物語はおしまい。

 

今回学んだこと。

1.グリーンカードのコピーは必ず取って、いつも取り出せるところに保管しておく。特にアメリカを出る場合は。(私の場合は、財布にコピーを入れて、パソコンにもスキャンしたイメージを保存してある。両方とも使った。)

2.昔の失効したグリーンカードはずっと保管すること。外国に行く場合は、現行のグリーンカードと一緒に持っていくといいかもしれない。現行のグリーンカードをなくした場合、昔のを使用することができる。(飛行機会社の許可が必要。)もし飛行機会社が昔のグリーンカードを受け付けない場合、領事館のウェブサイトを見て、I-131A:Boarding Foilの申請をしないとならないかも。(この場合、飛行機会社からアメリカ領事館に問い合わせをしてもらうとよい。)

3.日本で落とし物をした場合は、まず思い当たる場所の警察や施設の遺失物届所に電話する。遺失物届所は一つの施設で何か所もある場合があって、お互いつながっていないので、全てかけるとよい。→私も最初から成田空港警察にかけていれば、すぐ見つかっていた。