野口晴哉「整体入門」② | 遠隔浄化と気づきのお手伝い

遠隔浄化と気づきのお手伝い

「みんなちがってみんないい」遠隔浄化と気づきにより、
人生を幸せに生きるお手伝いをさせて頂きます。ご縁に感謝。


野口晴哉先生の本「整体入門」から、
大事だと思うところを書いておきます。
良かったら読んでください。(*^-^*)
2002年発行です。

◎人は平素の生活では取り出せない力を
持っております。
平素は意識の枠内で生活しておりますので
取り出せまはすんが、何かの理由で体の
中に勢いが出てくると発揮されます。

火事の時に90キロある蓄音機を一人で
持ち出したが、火事が終わって中に持ち
込もうとしてもいくら力を入れてもビク
ともせず、三人がかりてやっと運べた話。

普段は腰が曲がり、ノロノロし、ごはんを
よそうのも待っているうちに空腹になって
しまう位のんびりしているお婆さんが地震
があった夜に、「地震ですよ、早くお逃げ
なさい」と言ってアッという間にいなくなっ
てしまい、昼間の動作からは想像もつかない
速さだった話。

防衛庁長官をしたこともある人が、脳溢血
のあとの半身不随で寝ていたのに、近所に
落ちた爆弾の音にビックリして、起き上が
って逃げてしまった。以来、半身不随では
なくなったとのことです。

◎体力を呼び起こすのは「勢い」である

ことに病気になった時など、他人の知識や
知恵や後援をあてにして、こういう力を
発揮しないで不平ばかりいっているような
ことはおかしい。
持っている自分の力を自覚しないで助けを
求め、自分の体のことは、自分の力を発揮
して処すべきだと思わず、自分の大便を
他人に気張ってもらって出すつもりでいる
から、体の中に勢いが起こらない。
痛いとか何とか、周囲の同情を求めりように
その声を使ってしまうなら、自分の体の中の
勢いにならない。
だから、こういう力を呼び起こせない。
体力がないようなことをいうが、そうではない。
頼ることやすがることばかり考え、他人の力を
あてにしているから、自分の力が働かないの
である。
持っている力が潜在したままで役に立たない。
も少し困れば力が出せるかもしれないのに、
庇ったり、守ったり、力を貸すことしか
考えない周囲の人は、他人の排便を気張って
いることに気づかねばなりません。
その人は親切な行為と思っていても、他人の
体の中に起こる勢いを消しているかもしれ
ないのです。
いろいろと余分な栄養を与えて、食物から
栄養を摂取しようとする体の勢いを消して
しまうことなど、よくあることです。
給食を子供が嫌がるのに、口の中へ押し込み
食べないと叱り、また、罰を与える教師が
あるそうですが、それではホルモンを分泌
する力のある人に代用ホルモンを注射して
いるのとかわりません。
子供は養殖の豚ではないはずです。
体が要求しない栄養は体にも心にも毒に
なります。
牛の頭をかかえて草を食べさせるような
親切の押しつけは、発揮できる力まで萎縮
させてしまいやすいのです。
衛生とか、養生とか治療とか、体のことと
なると、こういうことが多いのです。

私の言いたいことは、表面に表れている
体力だけが体力のすべてではなく、
潜在している体力も体力であることを自覚し、
自発的に行為すれば、こういう力を活発に
喚びおこすことができるのだということで
あります。


◎自分の体の要求に従うこと

よく「健康にしてもらいたい」という人が
おりますけれども、健康というものは自分
で産んでいかなくてはならない。
人からもらうものではない。
自分で運動を調節して自分で作っていく。
自分の生活の反映が今の健康なのです。
自分の体の使い方の結果が今の健康である。
異常ならば自分の使い方の結果が異常なの
です。
だから異常を起こしてそれを治そうとするなら、
体の使い方を改めなくてはならない。
使い方を改めるのは頭で考えてもわからない
面があるが、人間の体には意識しないで
バランスをとる要求があります。
ご飯をたべるにしても、体に必要な時はうまい
し、必要のない時はうまくない。
動くにしても、エネルギーな調整が必要な時は
快い、余分になると疲れる。
エネルギーが余るとだるくなる、暴れたくなる。
けれども、ちょうどいい時は快い。
ちょうどよければ、暴れたあとでもそれが
鬱散に役立って快い。

人間は快い方向に動いていれば健康になるし、
健康になればどういうことをやっても快くなる。
そして、その快いという方向に逆らわない
ようにさえしていれば、自然に丈夫になって
いく。
それを意識で「良薬は口に苦し」というような
ことを考えてしまう、それは間違っています。
頭を通さないで、意識以前の快さをそのまま
感じて、それが行動に繋がるように生活すれ
ば、人間は自然に丈夫になるなですが、
意識が発達しすぎるとそれがむずかしい。


◎ムチウチ症と被害者意識

近頃、「脛椎ヘルニア」いわゆるムチウチ症
という、脛椎五番または六番、七番の異常
が大きな問題になっています。
けれども自動車の衝突事故は今までも始終
あったのです。
それが最近になって圧倒的に増えたのは
なぜだろうか。
そういう人が道場にもたくさん来るので
調べてみると、ぶつけられたのたから
首が狂ったはずだ、狂ったのだから手が
しびれるはずだ、しびれているから
こういうようにムチウチ症状が起こる
はずだ、という観念症状、あるいは
ムチウチ症という言葉の自己暗示による
ものが非常に多い。
今まではこんなに多くなかったが、事故の
増えた割合を計算に入れても何十倍か多く
なっています。
だからムチウチ症といわれるものの中に
観念症状がかなり多くなってきていると
いうことは確かです。

観念的な病気というものは意外に多くて
当人が納得するまでそれがつづく。
想像妊娠のように分娩日がきたら凹む
ようなのなら別に心配はないが、無期限に
未来永劫に持って歩く症状もあります。
乳癌とか胃癌とか子宮癌とかいうことに
始まって、いろいろな病気にそれが多い。
病気の九割がこういう観念症状ではないかと
思う。
一つの病気が有名になってくると、だんだん
そういう傾向が起こる。
ムチウチ症状も「脛椎ヘルニア」といっている
だけだったら、おそらく割に簡単に、骨さえ
正せば治ってしまったろうと思うのです。
その証拠に四年前は、誰がやっても脛椎を
正すと同時にムチウチ症状も治っていました。
怪しげななかなか治らない病人が出てきたの
は三年前からです。
それが最近になって圧倒的に多くなったのは
なぜだろうか。

一つは交通事故というものが、早く治っては
つまらない、重ければ重いほどよい、
もうどうせ命にはかかわりがないのだから、
重い方がゆっくり療養できるし、重ければ
重いほど見舞金も余分にもらえるという
ような、功利的な理由で治りにくくなると
いうめんがある。
交通事故には多少ともそういう傾向があります。


◎自己同情型には痛みを与える

ムチウチ症状を治そうとする場合には、
まず被害者心理について研究しなければ
なりません。
被害者の心の中には、人に害されたという
ことに対する憤り、悲しみがある。
と同時に、害を与えられるような立場だった
ということに対しての自分への同情がある。
そして、いつのまにか、自分をかわいそうな
もなだと思い込んでしまっています。
憤りがあって相手を攻撃する方は陽性ですが、
悲しい方は、自分で自分に同情しているのです。

その自己同情ということが起こると、被害症状
はドッと多くなって、いろいろな異常が内向
し、しかもつづく。
あとになって異常が出てくる「後遺症」という
ものの大部分は、自分で自分に同情する心が
動くからです。
慢性病でも、自分で自分に同情したり、
自分がかわいそうだとか、みじめだとか
思うようになると、病気は急に悪くなります。
そうなった頃からマゾヒズム的傾向が強く
なってきて、それがつづいているうちに、
かわいそうな自分がいよいよかわいそうで
あることに快感を感じ、みじめな自分が
いよいよみじめになってゆくことに関心を
抱き、同情をもち、同時にそれが快感に
変わってゆくということになります。
自分への同情というのは、他人は自分の
ように同情してくれっこないから、
他人には、むしろ与えられる面を望む
ようになっているのです。
痛いこと、苦しいこと、こんなにひどいこと
をされなければ治らない、それほどひどい
目にあったんだ、そのために片足が不自由
になった、寝たり起きたりの生活をしなけれ
ばならない、とそれでもどこかで満足している。
自分への同情に酔うのもほどほどにして、
早く正常なところに引き戻さなければ
なりません。
それには、治すのにも、痛いことに満足
しなからも逃げたくなり、逃げて行きながら、
満足するということの痛みの与え方が必要です。
ただ余分に痛いからそういう気持ちが満足
するのかというと、そうではありません。
心のもうちとつ奥にその痛みが入ってゆく
ようにすることが大事なのです。


以上です。

良かったら参考にしてください。🍀