“キムラ タケシ”が、産衣に縫い付けてあった名前だったらしい
ただし、フランス系のシスターシンシアには漢字も分からず、適当に宛字をして小学校四年生の二学期まで地元の日本小学校に通学した
最近の韓流ブームには苦笑を禁じ得ないが、同じ国内で同じ日本人の多くが(律儀に朝鮮人、韓国人を嫌悪し続けている日本人も結構健在している。)こうも劇的に変化すると、正直いささかコッ恥ずかしい
給食の無い“弁当持参日”に、おかずが“キムチと鱈のチゲ”だと言って《ニンニク臭い!朝鮮人早く自分の国へ帰れ!》と毎度囃子たてられたが、今や“キムチ、カルビ、チゲ、チヂミ等”は“日本料理”に変わったらしい
半世紀という月日は、やはり長い年月というべきなのかと思う
義理の兄達と同じ韓国学校に転校するにあたり、《探しようも無い出生届を盾に、日本人への原籍回復手続きを一向に受理してくれない“法務省出入国管理事務所”にも見切りをつけて、養父母と正式に養子縁組みを交わし“韓国人”》となった
当時の在日韓国人と朝鮮人はざっと60万人、その大部分は植民地にされた朝鮮から、強制連行されて来たり、あるいは密入国して日本に潜り込んで不法滞在していたり、ある意味“難民の群れ”と言えるかもしれない
したがって、新聞の社会面には、連日のように“金本某こと本名金○○がまた犯罪を犯し”との記事が掲載されるのが頭痛のタネだった
韓国人となるということは、当時の日本社会から受ける差別とイジメに対抗する“同胞のバリアー”を手に入れる同時に、違う“リスク”を背負い込むことでもあったのだ
しかし、ほとほと子ども心にも傷つき疲れ果てていた私は、養子として迎えられて以来四年半、実子の義理の兄達とまったく同等に慈しんでくれる養父の『韓国人となって我が子になるにあたっては、自分の出自を忘れることなく、常に“志と品格”を忘れず生きなさい!』との言葉を胸に刻んで、今日まで半世紀の日々を生きて来た
親孝行の真似事しか出来なかったまま、養父母を見送ったことは心苦しいが、これからも日々“志と品格を忘れることなく”生きていかなければ、養父母に心から申し訳ないと思っている

ただし、フランス系のシスターシンシアには漢字も分からず、適当に宛字をして小学校四年生の二学期まで地元の日本小学校に通学した
最近の韓流ブームには苦笑を禁じ得ないが、同じ国内で同じ日本人の多くが(律儀に朝鮮人、韓国人を嫌悪し続けている日本人も結構健在している。)こうも劇的に変化すると、正直いささかコッ恥ずかしい

給食の無い“弁当持参日”に、おかずが“キムチと鱈のチゲ”だと言って《ニンニク臭い!朝鮮人早く自分の国へ帰れ!》と毎度囃子たてられたが、今や“キムチ、カルビ、チゲ、チヂミ等”は“日本料理”に変わったらしい

半世紀という月日は、やはり長い年月というべきなのかと思う

義理の兄達と同じ韓国学校に転校するにあたり、《探しようも無い出生届を盾に、日本人への原籍回復手続きを一向に受理してくれない“法務省出入国管理事務所”にも見切りをつけて、養父母と正式に養子縁組みを交わし“韓国人”》となった

当時の在日韓国人と朝鮮人はざっと60万人、その大部分は植民地にされた朝鮮から、強制連行されて来たり、あるいは密入国して日本に潜り込んで不法滞在していたり、ある意味“難民の群れ”と言えるかもしれない

したがって、新聞の社会面には、連日のように“金本某こと本名金○○がまた犯罪を犯し”との記事が掲載されるのが頭痛のタネだった

韓国人となるということは、当時の日本社会から受ける差別とイジメに対抗する“同胞のバリアー”を手に入れる同時に、違う“リスク”を背負い込むことでもあったのだ
しかし、ほとほと子ども心にも傷つき疲れ果てていた私は、養子として迎えられて以来四年半、実子の義理の兄達とまったく同等に慈しんでくれる養父の『韓国人となって我が子になるにあたっては、自分の出自を忘れることなく、常に“志と品格”を忘れず生きなさい!』との言葉を胸に刻んで、今日まで半世紀の日々を生きて来た

親孝行の真似事しか出来なかったまま、養父母を見送ったことは心苦しいが、これからも日々“志と品格を忘れることなく”生きていかなければ、養父母に心から申し訳ないと思っている
