厳寒の小雪舞う神戸貨物港に降り立った昭和31年2月、あまりの寒さに涙しょぼんと鼻水にまみれて間もなく4月、地元の小学校長音記号1学校サッカーに、覚え立ての日本語とともに入学したニコニコ


養家の義理の兄たちは、皆さん“韓国学校”の生徒、氏素性の定かでない“当方”のみ一人日本の小学校へ通う変則登校風景ニコニコ


ほどなく、同じ通学団で通う友達が出来て、彼の“家に”遊びに行く事になった得意げ



養家は大家族の上に、総数200人前後の“土方飯場”の洗濯台風スポーツあせると炊事係の従業員もたくさんいたので、大きな総二階建ての家家だったニコニコ


二ヶ月あまりでは、近所の様子もよく分かっていなかったが、友達の家は養家から歩いて五分程の距離にあった“戦災被災者アパート”ショック!


小川の様な下水兼用の“ドブ川”に沿って斜めに傾いたセメント瓦の古いアパートの中は、薄暗く裸電球ひらめき電球がぶら下がり、六畳一間に家族全員が折り重なるように暮らし、共同の汲み取り便所で風呂汗ニコニコ温泉は無し、薄暗い廊下には煮炊き用の“七輪”が並んでいたしょぼん


正直、びっくり仰天したが、友達の母親が温かく迎えてくれて慣れない畳みに座り込んだ得意げ


優しそうな母親を羨ましく思い、日本も悪くないなと印象を変え始めた頃、家家はどちらかとの質問に、“養家”と答えた途端、優しかった友達の母親の表情が豹変、すぐさま部屋から追い出され、あまりの見幕にどっと集まって来た隣近所の住人に罵られコズカレテ、靴くつも履けずに逃げ帰ったショック!


当時養家は、周辺の戦災被災者や生活困窮者に追いやられた不幸な日本人の皆さんからは“怨嗟”の対象プンプン


同時に、生活に困窮し悲惨であればあるほど、それでも日本人は“チョーセン(朝鮮)人”より上だ、アイツ等は《金は有っても、日本に植民地にされた第三国人なんだ!だから、無条件で馬鹿にしていいんだ!》との位置付けショック!



理屈ではなく、ただただ単純に、子供同士はもとより、近所の大人タバコ演劇キラキラ、果ては小学校の先生までショック!小学校四年の二学期から、あまりの差別とイジメに気がついた養父の計らいで、義理の兄たちが通う韓国学校に変わるまでのトラウマとしてまだ残る、小学校時代の差別とイジメ体験でありますしょぼん