神道では神様を数えるとき、一柱(はしら)、二柱(はしら)って数えるでしょ。何で神様を柱っていう単位で数えるのかっていうと、ネット的知識人いわく
>皆さんは神様の数え方をご存知でしょうか。神様は一柱・二柱というように、 柱(はしら)と数えます。では、なぜはしらと数えるのかについて考えてみたいと思います。
古来より日本人は、自然の中に神々の存在を感じていました。温暖で四季を持つ日本では、自然は人々に豊な恵みをもたらし、人々は恵みに感謝し、そこに神を感じたのです。神道は、このような神観念に基づき自然発生した民族信仰とも言うべきもので、自然全てに霊性を認め、畏敬と感謝の念を持ってきました。
そもそも神社のご本殿やご神体は、大自然そのものでした。山国である日本にとって、森は神々が存在する場所でした。現在でも神社には緑深い鎮守の森があり、大切に管理保護されています。木には生命があり、そこには魂が宿っています。神道にはことさらに木を大切にする宗教文化があるのです。
こうした気や森を大切にする宗教文化の土壌があるからこそ、神霊が宿るひと きわ大きな木で作られる大黒柱に神がいると信じ、神を柱と数えたとしても不思議ではありません。古代において、柱を建てるという事はとても大切なことでした。20年ごとに行われる伊勢神宮の式年遷宮において、神宮正殿の床下に奉建される「心御柱(しんのみはしら)」は、建築上には全く意味をなしません。しかし神殿成立以前の本来的な神籬を形象化したものと考えられ、神宮の聖なる中心ともいえます。しかもその忌柱 は、御用材中最も重要視されるのです。また、信州の諏訪大社にお いて7年に1度、寅と申の年に行われる「御柱祭」でも、社殿の四隅に巨木が建 てられます。その巨木は奥山で切られ、勇壮な木落としを経て社地の4隅に奉建されるのです。この御柱も社殿建築上はまったく関係のない柱です。
大地に御柱を立てるということは、あたかも天と地を結び、天空に宿る神霊をこの地にお招きしているかのようです。大地に永久に立ち続け、この地の安定と国土の永遠の安定とを願い奉献された御柱には、確かに神が宿るのです。
とか、
>『日本の助数詞に親しむ』中の、「神様の数え方 柱(はしら)」の項目に、「「柱」という字は「木」と「主」からできています。「主」は「そこにじっと立っている、支える」という意味です。
古く『古事記』や『万葉集』の時代から、日本では樹木に神様が宿ると考えていました。さらに、人間は土の中から植物のように生まれ育ったと考えられていて、「人間一人」の別称に「ひとつぎ木」という表現を用いて歌を詠んだりしていました。そこから、樹木が敬意を払う対象となり、ご神体、神像などを「柱」で数えることにつながりました。」と記載されています。
って検索すると頭の方に出てくるんですよ。
おれは、全然、上記の見識は間違ってますよっておもってるの。
人間ってさ、本当は人間だけじゃなくてあらゆる生命体、もっと本当をいえば生命体だけじゃなくて無機物もそうなんだけど、もっともっと本当をいえばある事象とか、ある出遭いとかっていう具体的なものにも抽象的なものにも、なんにでも、像といいましょうか、魂といいましょうか、エネルギー体といいましょうか、情報の塊といいましょうか、そういうのがあるんでね。
で、ひとりの人間の像とか魂とか、まあオーラでも大過ないとおもうんですけど、そのひとの持ちものでもいいんですけれど、だいたいの人って横たわった形をしてるの、それが。卵を横にした形みたいに。
で、その横たわった形をしてる、‟あるもの”が進化というか向上してくと、どういう形になっていくかというと、「垂直」の形に徐々になっていくものなんでさ。つまり突き詰められた魂みたいなものは、「垂直」になる。自立するといいましょうか。
で、大昔の霊能的な人にはそれが視えてたんだろうなって気がする。おお、あいつの魂は「柱」のように「垂直」だとね。
「垂直」な魂は「柱」のようだから、神を「柱」という単位で数えるようになったんだとおもう。