スティーヴン・ジェイ・グールド 渡辺政隆・三中信宏訳 『ニワトリの歯』 | 太田湾守−Irie Ohta−のブログ

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この本の標題になっている「ニワトリの歯」のところから著者が生物の遺伝と進化にもっている理念の特徴を説明してみる。とりもなおさずそれはこの本が読者に伝えようとしているいちばん大切な情報だといえそうだ。わたしの印象ではそれさえ頂戴したらこの本をわかったということになりそうだ。

鳥類の特徴はふたつある。歯をもたないこと、もうひとつツバサと羽毛をもつことだ。始祖鳥にも初期の化石鳥にも歯があった。でもここ六○○○万年くらいのあいだ化石になった鳥類には歯がなくなっている。いまニワトリの歯になるはずの鰓弓の上皮組織をつかって実験動物に歯を生えさせることができたとしたら、六○○○万年のあいだかくされつづけてきた遺伝的な暗号を、蘇らせたことになる。コーラーとフィッシャーの二人が一九八○年にそれをやりとげた。二人はニワトリの胚の鰓弓の上皮組織をマウスの胚からとりだした内胚葉組織(間充織)に組みこんだ。これは第一臼歯になる部分で、歯のエナメル層は上皮組織からつくられ、象牙質と骨はこの内胚葉組織からつくられる。二人は、実験動物の眼に、マウスの内胚葉組織(間充織)だけを移植したら、象牙質はできず骨質だけが発達した。つぎにマウスの内胚葉組織(間充織)とニワトリの上皮と組みこんだものを移植したら、五五例のうち一○例が象牙質をつくりだした。つまりニワトリの上皮組織は適当な内胚葉組織(間充織)と組みあわせれば、歯の象牙質をつくる力があることになる。いいかえれば、六○○○万年ものあいだ眠っていた歯をつくる遺伝的暗号を蘇らせたことを意味する。しかもそれはマウスの大臼歯の形とはちがっていて鳥類に特有な歯の形の一部が姿をあらわしたとみられた。さらにそのうち四例では完全な歯が生えた。つまりマウスの内胚葉組織(間充織)に象牙質ができただけでなく、ニワトリの上皮組織に歯のエナメル層の蛋白をつくることができた。このばあいニワトリ自身の内胚葉組織(間充織)では象牙質をつくらないから、ニワトリ自身は歯を発達させることができない。だが「過去の成長パターンは、秘められた形態に残されている」のが証明されたのだ。このニワトリの歯の例からわかることは、生物がひきずっている過去は、その生物の未来を拘束するということだ。もうひとつ大切なことがわかる。小さな遺伝的な変更をもとにして形態上の急速でおおきな変化をひきおこす莫大な潜在能力のたくわえを、暗号として秘めていることだ。

この本の著者はここから生物の進化についての著者の抱いている理論を披瀝してみせる。小さな遺伝的な変化がすこしずつ積みかさなって生物は進化し移行してゆくという考え方は納得し難い。形態に小さな変更をあたえる小規模な変化をとげた遺伝子が、ひとつずつ入れかわって進化が進むものだとすれば、ニワトリの歯のばあいのように祖先と子孫のまったくの形態の変化(始祖鳥には歯があったが鳥類は六○○○万年間歯がない。それにもかかわらず先祖返りのように歯をつくれる)のあいだには中間の種があってもいいのに、それは想像だにできない。そうだとすれば小さな遺伝的な変化が、大規模で不連続な飛躍的変化をひきおこす可能性があることが認められるべきだ。ニワトリの歯はそのことを示唆するひとつの例で、先祖返りの歯は、生物の過去の拘束や制限を語っているというより、遺伝システムが秘めている莫大な潜在能力のあらわれとみた方がふさわしい。これがこの本の著者の、古生物学者としての思想だといっていい。

著者は、さらに、なぜこういう考え方が成り立つのかを説明している。遺伝的な変化の度合いと、見た眼でわかる観察上の変化とは一対一で対応しているわけではない。遺伝子は、身体の個々のそれぞれの部分とつながって作用し、それぞれひとつずつの小部品をつくりあげることに関与するというようにはできていない。遺伝はひとつのシステムであって、このシステムは階層をつくって配置されている。コントロールにあずかっているものも、マスター・スイッチの機能をもつものもあり、それによってたくさんの遺伝子の群れが制御されたり、機能をきりかえられたりしている。コントローラーやマスター・スイッチの作用がタインミングをちょっとずらしただけで、システム全体におおきな影響をあたえ、形態上の不連続なおおきな変化につながるということがありうる。これがこの本の著者が、生物が進化のうつりゆきのなかで、ときに突然とおもわれるような、おおきな飛躍的大変異をとげることがありうることの根拠とみなしているものだ。

著者はこれを説明するためにキイロショウジョウバエにおこるホメオティック(相同異質形成)突然変異(奇形)の例をくわしく説明している。たとえば人間の身体でもとも脚が生えるところに一対の手が生えたらそれはホメオーシスと呼ばれるが、胸部にもう一対の手が生えてもホメオーシスとはいわない。ショウジョウバエで触角が生えるべきところに肢が生える触角肢突然変異がある。これは先祖がえりの肢が生えたのではなく、中胸に生えるべき肢で、このホメオーシス的な突然変異は、中胸の体節のところで遺伝システムのスイッチがオンされるべきところを、触角が生えるべき体節でスイッチがおされてしまったために生じた変異であるといえる。

こういうホメオーシス的突然変異の例をいくつか、くわしく解説してみせたあと、この本の著者は、わずかな数の遺伝子が身体の各部を発達させる基本の指令を制御していること、そしてマスター・スイッチがオンの場所と時期を間違えると、ホメオティックな変質変異がおこるのだと指摘している。遺伝のプログラムがマスター・スイッチをそなえた階層構造をもったシステムによっておこなわれるとすれば、このスイッチに影響をおよぼす小さな遺伝的な変化が、身体全体にナダレ現象のようなおおきな変化をひきおこし、それが大規模な進化の移行を生みだすことがありうる。その根底にあるのは著者たちがとっている遺伝のシステムの階層構造という考え方だ。

たぶんいままでのところで、この本の著者が読者に伝えたいとおもっているいちばん大事な考え方と立場を言いあてているはずだ。だがこの本は大事なことだけを語ろうとした本ではない。むしろ大事でなさそうなことで、しかもほんとうはよくわかってないことに、確かな興味ぶかい解答をあたえること、また解答をあたえるまえに、まず生物や生命現象にあくことのない<なぜ?>を問いかけ、好奇心をよびおこすこと、これを人々に伝えたいというモチーフが、この本をジャーナリスティックで高度な生物科学の啓蒙書にしている。生物は雄のほうが短命か?ある生物の特徴になっている形態の原因は、これがその生物の現在にとって有用性をもつためだといちずに考えるよりも、どんな進化ともかかわりなく、どんな遺伝的特徴も、まったくべつのものに転化される潜在的能力をもっているのだとかんがえたほうがいい。

たとえばナマコの腸内に寄生する軟体動物の一種は、雌雄両方の生殖器官をもつ雌雄同体とかんがえられていたが、最近になって雄性の器官とおもわれていたものは雌の体に恒久的に付着した雄個体の退化したものだということが判った。

またアンコウのある種は、雌の皮膚に小さなアンコウがくっついていた。子供のアンコウだとおもわれたが、不可解なことに形態が退化していた。また結合部分をみると、小さなアンコウの口のなかやノドのおくに雌の組織が詰めもののように入りこみ、癒着してしまっている。このアンコウが見つかって三年後に、イギリスの魚類学者リーガンが、この稚魚とかんがえられたものは、小さな成熟した雄が、そのまま雌に付着しつづけたもので、雌魚雄魚の結合部は一体化して血管系につながっていることを見出した。

こういう極端なおもしろい例をあげて、著者はなにを啓蒙したいかといえば、自然界の生物の無数の種のあいだで起っていることは、人間中心に擬人化したり、人間のあいだの倫理を適用したりしてもいけないし、逆にすべてを生物のレベルに還元し、人間もまた生物の種のひとつだという見方から、人間の振舞いを解釈できるとかんがえても成り立たないということだ。偶然とみなされる進化の系統も、必然とみなされる進化の形態も、そのこと自体は善でもなければ悪でもない。また自然はなにか目的をもって生物の進化と移行を統御しているわけでもない。とくに残酷なことに充ちているのでもなければ、とくに慈悲にあふれているわけでもない。著者はもうひとつの例で、おなじことを語らせている。

アオアシカツオドリは、白い糞の輪(グアノ・リング)の範囲に卵をうみつけ、そのなかでヒナを育てる。親が食物を充分にあたえられるときはいいが、食物がとぼしく、一羽のヒナが生きのこれないときは、年下のヒナは年上のヒナからグアノ・リングの外におしだされる。親鳥にはリングの外に数センチおしだされた年下のヒナの哀れな声はきこえるはずだ。確かに親鳥は、ヒナをすばやくもとのリングのなかにもどせる位置にある。でも親鳥はリング内にいるヒナには食物をあたえ、リング外のヒナは無視して、食物をやろうとはしない。この習性はいったい何なのか。

著者によれば生物の形態と行動は多種多様だが、すくなくとも三つの主なカテゴリーに分けられるという。

①自然淘汰によって形成された直接の行動。

②適応の方向に制約をくわえるような基本パターンをもっているため、かならずしも適応としてではなく、単純な刺激への反射からうまれた行動。

③もうひとつは、祖先の種にとってはっきりと適応だったものが、子孫にとっては別の利用のされ方になってしまったもの。

カツオドリの雌と雄は、物をくわえてきて相手にそれを与えるという儀式化した行動で求愛のシルシとしている。地面にじかに産卵するようになった現在のカツオドリには意味がない行動だが、これは祖先の種が巣をつくるためにやった行動の一部が、求愛の行動に転化されたものだ。それはいまでも巣をつくる近縁の種の巣づくりの行動と酷似していることからとてもよくわかる。

最後に著者の怖い話もつけくわえておくべきだろう。超長期の古生物学の視点にたてば、絶滅しない生物の系統種はひとつも存在しない。人間という種もまたいつかは絶滅する。これはその種のデザインが悪いとか適応がにぶいとかいうことからおこるのではなく、環境が不可解の難題を課したとき、生物種のとる反応のひとつとして絶滅がある。絶滅によって新参者のためのスペースが用意されなかったら、進化はすすまない。たとえば恐竜が絶滅しなかったら人間などいまのような進化もなければ、存在もなかったように。自然、時間、生物、人間(ヒト)について、著者はとても奥深い問いを投げかけているかのようだ。