網走番外地(第3章)。 | プールサイドの人魚姫

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-バイタリス

 私は父が逮捕された事を知っていた。藤枝の町はそれほど広くはない、だから噂は直ぐに広まった。ましてや暴力団同士の諍いとなれば立ち所に住民の耳に入る。

 「長楽寺の信さんがまた何かやらかしたらしいよ」

 「あれ、今度は何だね?どうせまた酒飲んで暴れたんじゃないかね?」

 噂が噂を呼び、事の真相とは大きくかけ離れて噂だけが一人歩きしていたが、そんな噂も流石に清水市内にまでは飛び火して来なかった。

 私は天竜養護学校を卒業した後、心臓病のため高校進学は諦め清水市内にある療養型職業訓練所へ入所した。其処で商業簿記3級の資格を取り、将来の為に役立てようと思っていた。施設の入所者は殆どが60歳を超える老人ばかりで、病院で面倒が見切れなくなった者たちが行き場所を失い、家族にも見捨てられた、謂わば現代版姥捨て山のような所であった。

 少し遅めの朝食を終えて、テーブルの上にある新聞に眼を通していた。最後の3面記事に差し掛かった時、思わず「ええっ!」と声を上げてしまったのである。

 ――静岡県警藤枝署は15日、同県藤枝市本118、住吉会系組織暴力団極東会桜組み幹部・神戸信夫(39)を恐喝容疑で逮捕した。取り調べによると、調理師である山崎忠雄さん(29)に調理の仕事を依頼したが断わられた為、再三に渡り因縁を付け仕事を手伝わなければ金を出せと脅したと言う――。

 活字のみの表記であれば逮捕された人物を父だと特定には至らなかったかも知れないが、楕円の顔写真付きで載っていた為に、紛れもない事実なんだと受け入れるしかなかった。

 然し、その記事に寺下勇次の名前が載っていなかった事に疑問を抱いていた。藤枝に帰った時、勇次と二人で的屋をやる話しは聞いていた。軽車両を使って移動式のラーメン屋を始める内容だった。

 父は酒癖が悪いと言っても、普段は実に大人しく人当たりも良い方だし、近所の人たちからは「信さん、信さん」と慕われていた。酒を飲んだにしても酔って暴れるのは殆ど私の前だけであったし、酔って他人を傷つけたと言う話(ヤクザ同士の喧嘩以外)は一度も聞いた事がなかった。

 そんな性格の父が人を脅すなんて事をするだろうか?疑問は尽きなかったが、おそらく寺下勇次の差金に違いないと思っていた。勇次は気性も荒く、喧嘩っ早くて有名だった。いざこざの仲裁に父が呼び出される事は度々あったし、尻拭いをするのはいつも父の役目だったような気がする。

 勇次の度胸と腕っ節の強さは、父が「兄貴、兄貴」と慕っていた人斬り慎司の異名を持つ杉山慎司(私はシンちゃんと呼んでいた)も一目置いていたほどである。そんな勇次から私は一度だけ思い切り怒鳴られた事があった。

 清水の訓練所に入所してから半年あまり経った頃、初めての外泊許可が出た。入所したばかりの頃は頭髪も短く中学生の素顔もまだ抜け切れなかったが、半年も経つと髪も大分伸びてきており、それなりに色気付いてくるものである。大人の真似事をして、初めて買った整髪料がライオン化粧品のバイタリスだった。

 その整髪料をべったりと塗付け、櫛を使って髪型を整えると、意気揚々と藤枝の実家に帰ったのである。家に帰る事を事前に連絡しておかなかったのは、突然帰って、父や伯父たちを驚かせてやろうと言う魂胆だったが、その辺はやはりまだまだ子どもじみていたと思う。

 父は昔から何の予告もなく突然行方知れずになる人だったので、その時も在宅かどうか全く当てにはしていなかった。学校から帰った時のように「ただいまーっ」と玄関をくぐった。すると、いきなり酒の臭いがプーンと鼻を突いた。

 私は思わず「ムッ」として怒りがこみ上げて来た。父が家にいるのは確かだったし、それはそれで嬉しかったのであるが、時計を見ればまだ昼を少し回ったばかり。こんな明るい内から飲んだくれている父に対し、怒りと同時に例えようのない悲しみを押さえる事が出来なかった。

 こんな事は初めてではなかったし、幼い頃に嫌というほど経験している。だからこそ余計に腹が立ったのかも知れない。座敷に上がると案の定、父はあぐらをかいて日本酒を飲んでいた。顔は既に紅く、私を見つめる眼も虚ろで泳いでいた。

 「なんだよ、こんな昼間から酔っ払って…」

 「おう!俊坊、帰って来たのか」

 その後、どんな会話を交わしたか殆ど覚えていなかった。気が付くと父は鬼のような形相で立ち上がり、私の両肩を両手で掴みグッと力を入れて押さえ付けて来た。が、その瞬間だった。咄嗟に放った私の右ストレートの拳が父の口元に見事にヒットし、父は崩れるようにもんどり打って畳に倒れ込んだ。

 うつ伏せに倒れた父の口元から真っ赤な鮮血がドクドクと流れ出していた。酒で充血した眼はカッと開いたままで、畳のある一点を見つめているかのようだった。流れ出した血が見る見る内に畳を赤く染めて行く。

 倒れたまま何も語らぬ父のそんな姿に怖くなり、私は涙を堪えながら急いで家を飛び出し、母の実家がある木町(茶町)へと向かった。後にも先にも父を本気で殴ったのはこれ一回のみであったが、幼少期に散々父に殴られ痣だらけだった少年の姿はもう其処にはなく、父と少年の立場が逆転した瞬間でもあった。

 次の日、父の事が気になっていたので家に寄ってみた。黙ったまま玄関をくぐると、縁側で日向ぼっこを楽しみながら新聞に眼を通している父の姿があった。私は内心ホッとして後ろからそっと声を掛けた。

 「父ちゃん、昨日の事覚えているよね?」

 父は酔うとその日の出来事を忘れてしまうので、確認の意味も込めて訊いてみた。

 「俊坊、いいパンチしてるな、かなり効いたぞ」

 信夫は少し腫れ上がった口元を撫でながら笑みを浮かべつつ言った。それはまるで成長した息子の姿を確信したかのような、喜びに満ちた表情にも見えた。

 「父ちゃん、昨日の事しっかり覚えてる…」私は心の中で呟いた。昨日の出来事が原因で父と子の間がぎくしゃくするような心配は何もなく、私は胸をなで降ろすように安心したが、父が掴み掛かって来た原因が何だったのか全く思い出せなかった。

 「訓練所の暮らしはどうなんだ?」

 「うん、まあまあかなぁ、月5千円小遣いが出るのでそれで日用品とか買ってるよ」

 「三保の松原が近いんだっけ?」

 「うん、まあ近いけどバスで30分くらいかな」

 「清水市内に浅田さんの家があるぞ」

 「浅田さん?親戚なの?」

 「ああ、父ちゃんの従姉妹の家だ、宝くじ3千万当たったって自慢してたから行けば何かくれるかもしれんぞ」

 「へえー、本当?凄いね」

 「ケチで有名だけどな」そう言って父は大笑いしていた。

 そんな笑顔の父が私は大好きだった。柔らかな陽射しと父の言葉に包まれて、私はいつになく幸せな気分に浸っていた。春の到来を告げるかのようにメジロがさえずり、風は優しく幹の小枝を揺らしいた。

 「じゃあ、父ちゃん門限があるのでそろそろ帰るね」

 「おお、そうか、またいつでも帰って来いよ」

 帰り支度と電車の時間を確かめ、立ち上がろうとした時だった。

 「おーい、兄貴いる?」寺下勇次の声だった…。

 (更に続く…)。