鉄路と連絡船 空白の戦史 | 新・発動機とともに

新・発動機とともに

ご訪問ありがとうございます。

3.10.15 (金) ☀️ 27℃予報


昨日は「🚂の記念日」でした。

ガキの頃は色々な車両が混在した長~~~い貨物を見たものですが、先頭は忙しそうなので、最後尾の車掌車でノンビリと景色を眺めながらがヨロシイなどと、子供心に詰まらぬ妄想をしていたものです。


そんなんで、今でも🚂🚞には多少の興味はありますが、決して奥を極めたような知識はありません。


書棚には、あたくしが買ったのではなく、祖父がまだ文字も読めない孫へと送ってくれた6年分の雑誌や書があります。

序でにあたくしも暇をみては眺めておりました。その程度です。



夜の上野駅は北へ西へと賑やかな時代でした。
今は結構、レア物かも?↓


○○系…と聞いても全く意味不明でして
北斗星、銀河、確か北陸だったかは、乗ったことがありますが、まぁ~寝られませんわね。

見ても何型はどこが違うのか?


当時は周遊券があり、何度か使ったことがありますが、お得感がありましたね。
これは、更に古く…¥150です。↓


全盛期ですね。

題名の「空白の記録」とは…
戦時下の時代、あたくしも鉄路については全く分かりません。
お国の図書館や地方の小出版には数々あると思いますが、全容を明らかにしたものは目にしたことがありません。

たまに📺で、米国のガン📷が🚂を捉えた映像を見ることがありますが、凄まじい銃撃です。

時は平時輸送から戦時輸送へと…
旅客より貨物優先となり大量の物資、兵員の輸送となります。
大量輸送には船舶が適してますが、民間船の多くが陸海に徴用され、国内では内航船が不足し、鉄路の陸上輸送に拍車をかけました。
石炭、鉱石、鋼材、セメント、木材、燃料、等々…
兵員の動員や移動も同じく優先されます。
多分、ダイヤは滅茶苦茶だったでしょうね。

買い出し列車が超満員となったのは、そんなところにあります。
運行は戦時輸送が優先でした。

昭和20年に入ると本土空襲も激化し、更には艦載機の襲来、硫黄島からの陸上機も跳梁するようになり、鉄路や駅も目標となりました。

旧官営だけの被害
爆撃 約400回、銃撃約500回、
艦砲15回(室蘭、釜石、日立、浜松)
駅約200箇所、軌道破壊1,600㎞、通信線約9万㎞、車両工場14箇所…
機関車890両、客車2,220両、貨車9,560両
青函連絡船8隻沈没(7万9千トン)

ここに人員の被害は出ていませんが、多数であることは間違いありません。
非戦闘員のご老人、婦女子や学生も沢山いたはずですが、その実体は不明です。
目標付近は流れ弾が跳梁し、周辺の被害も少なくないと想像します。
地方の図書館には、その地の記録や証言として残っているはずです。

戦局の悪化とともに、太平洋側は艦載機による危険が大となり、日本海側の輸送が重点となります。
金属の不足と老朽化も激しく、代用品で製造した貨物、客車が多くなります。

そして、終戦となり焼野原の混乱の中で、再び超満員の復員輸送、買い出しからスタ~トしました。

関門トンネルも本来は、船舶輸送の危険を回避として計画され、軍事輸送を主目的としたものです。
当時からあった新幹線計画も広軌としたのは、大陸と同じ軌道にして、大陸~半島~関釜⛴️~と至る本州への輸送力を増強させるためと聞いたことがあります。
そもそもの発想は、ビジネスや旅行が目的ではありません。

更には終戦時には、野戦での専門部隊である20個の鉄道連隊も存在していました。


戦時下の鉄路と人々の暮らしは、余り世に出ていない空白の記録と感じます。

果敢に鉄路や乗客を守った本職の方々も沢山いたことでしょう。
更には東海道線の「ガラスの兎」のような悲しい実話も全国にあったのではないかと思っています。
 
昨日の「🚞の日」に感じたことです。