外のお仕事、恵比寿〜万世橋 | 新・発動機とともに

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3.4.8 (木) ☀️~☁️  18℃


午前中から乗りたくもない🚞🚞🚞でGOです。
かっては、広大な🍺工場と貨物駅があった地に到着しました。恵比寿…

ドイツ風…↓

130年前の明治の時代、この辺りは目黒村と渋谷村だったそうな・・・
のどかな風景が浮かんで来ます。

そこに🍺工場が建ち、これがまた相当に売れに売れたそうで、貨物駅と専用線があり、現在の駅舎はその名残りです。

明治の時代に日本で🍺を製造していたとは知りませんでしたわ。…(~_~;)
ハイカラな飲み物だったのかな。

昼間から喉を潤す訳にも行かず、通り過ぎるだけです。

広大な工場跡地に再開発が入ったのは、平成6年頃でバブルがぶっ飛んだ時です。
頭の中で🍺の泡と重なります。(^-^)

あたくしには、全く縁の無いバブリ~で洒落た街区です。
タワ~群には上級の方々か・・・

ガキの頃、町で一番高い建物は🚒署の望楼でしたわ。

ど~も違和感を感じます。
ここには、🐗🐗🐗、🐸に🦎なんぞは出没しませんからね。

うむ…フランス風か↓
所用も済んだので転戦します。

久しぶりに秋葉原で下車しましたが、街の変貌にはぶったまげました。ヽ( ゚д゚ )ノ


電気屋が無くなった・・・


通りは漫画と化しておりました。


以前は駅前の正面でしたが、ビルに囲まれた一角に小さなショ~ワが残ってました。
この街はこれだよなぁ~~! 
時間があるので迷宮に入り、🏍️のヘッドセットを見て来ました。

一昔前、ここに来れば電子部品は何でも揃うと言われ、東西冷戦下にスパイ小説の様な雰囲気が漂っていたものです。

↓この先、かっては東京の名所でした。
ここからは見えませんが、少し先が駅前で賑わった跡です。
幻となった万世橋駅…
その後は🚅の博物館となり、それも移転して、今は煉瓦造の一部が残っているだけです。
時間が無いのでパスします。

東京名所と言うのは、この駅前には日露戦役後、全国からの寄付金で建立された巨大な銅像が昭和22年までありました。
戦前の東京見物には必ず入っていた場所です。

旅順口閉塞戦での広瀬中佐、杉野兵曹長の銅像でした。
「杉野はいずこ…杉野はいずや…」
尋常小学校の唱歌にもなり、子供から大人まで、その逸話は全国に広まりました。
現代ならば、勇敢な上司のお手本みたいなものでしょうか。

我がジイ様、バア様達も、先生の弾くオルガンの伴奏で歌い、先生の話しに子供達は拳を握り、目を輝かせていたのではないかと想像しています。
当時は国策です。
本当の恐ろしさが解るのは、後日の事になります。

銅像は震災と戦災を乗り越えたものの、戦後に東京市が撤去をしました。
GHQの命令ではありません。
戦中と戦後の区切りは、この辺にあるような気もします。
我が国民性は戦国の世から、造っては壊すのが得意です。

未だ東京中が焼け野原にバラックで、明日が見えない日々、衣食住にも事欠き大空襲の悪夢が強い残像であったことは間違いありません。

戦災で独りになった多くの子供達は、飢えと寒さ暑さに耐えながら、地下道での日々を過ごしました。
大それた事を言う訳ではありませんが、時にお国は弱者に対して冷酷で非情な仕打ちをします。

旅順口閉塞戦は、多くの書にも出ておりドラマ化もされました。
要塞の湾口、危険極まりない作戦です。
広瀬中佐は海兵16期、無事であれば後には日本を代表する人物になったと思います。
そして、杉野兵曹長のご子息は父の意思を継ぎ、やがては「長門」艦長になります。
幻の駅前には数々の物語があります。


所用も完了し再び転戦します。
二駅で到着、少々の時間調整をします。

上野に来ると空が広く見えますねぇ~!
東京に残る貴重な空間と感じます。
例年ならば🌸が満開ですが、昨年と今年はあっという間でした。

少しだけ散策しました。15分だけ…
ぶら…た◯りならぬ、ぶら発動機です。

山手線の内側で、これだけ空が見える場所はありません。
気分は爽快…爽快…
時間が無いので入口まで…




水と緑と花に鳥…
ゆりかもめ?


オマケ↓
どこを見ても🌸も宴も無いが・・・
事前に決定したものは動かせないのかも知れません。多分…予算もあるはず。

大きな組織になると、臨機応変や独断専行は無理バ~ジョンとなります。
典型的な縦型なので、伝達は上から下への何段階にも及び、現地での判断や意見は下克上になるのかなぁ~?
日本的な根回しやら調整も、まだまだ活きており、どこがIT化なのか意味不明となります。

鶴の一声か・・・

お江戸の👮4万+昔の鉄道👮=6万か?
考えると凄いものですわ。(ノ゚ー゚)ノ