市民が見つける金沢再発見 -291ページ目

秋の坊②

【心の道・梅の橋→浅野川大橋】
元禄3年(1990)夏“秋の坊”は、はるばる近江の幻住庵に芭蕉を訪ねます。その時、芭蕉は“我宿は 蚊の少なきが 馳走かな”と吟じて留めたといいます。“秋の坊”は、それを謝し、数日居て去ります。その時、芭蕉は山の下まで送り、別れに、また一句“やがて死ぬ 景色に見えず 蝉の声”と吟じたといいます。


その日々のことを”秋の坊“は終生、忘れられないものであったと伝えられています。


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(幻住庵は、芭蕉は「奥の細道」の旅を終え、膳所の義仲寺無名庵に滞在しますが、門人の菅沼曲水の奨めで元禄3年4月6日から7月23日の約4ヶ月間隠棲しました。現在も幻住庵は滋賀県大津にあると聞きます。)


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(蓮昌寺の本堂)


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(蓮昌寺の火頭窓と大仏堂)


千石取りの加賀藩御普請奉行で俳人の生駒万子(いこままんし)に炭を乞う話は、よく知られています。雪が降り、寒さに堪えかね、着たきり雀で蓄えなど全くない”秋の坊“は万子に何やら歌を書き送ります。


   寒ければ 山より下を とぶ雁に
         ものうち荷ふ 人ぞ恋しき


万子も然る者、この歌から炭の無心であることを察し、“寒ければ 山より下を とぶ雁に ものうち荷ふ 人をこそやれ”の返歌をそえて、炭を贈ったというものです。



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さて”秋の坊“の臨終の様子が”俳諧世説“に伝えられているといいます。”秋の坊“の命終は、「正月四日なりしぞ。其の日友とせし李東といふ者、坊の庵を訪ひ来たり、例に心安さの儘(まま)匍匐(ほふく)して語りあふ内に、坊曰く我れ暦作れり聞くべしとて


  “正月(むつき)四日 よろず此の世を 去るによし    秋の坊”


と口ずさむかと見えしがさしうつむきて息絶えぬ。李東驚きあえる中にも、この坊のつねづね自己を忘れたるふるまひにたがわず、と感涙別涙取交せながら


  “稲積むと 見せて 失せけり 秋の坊   李東”


と取りあえぬ一句を手向けて、かたのごく葬ふりけるぞ。」と書かれているそうです。

(稲積むは、寝ること。金沢近郷では、正月の三ヶ日は寝正月といって”寝た火箸も起こさないという“諺もあり、古くから俳諧の季語であったという。)

しかし、この「正月四日・・・・」の句は6年も前の正徳2年(1712)に開版された、金沢の百花堂文志編「布ゆかた」に、


諷竹追善
 正月四日 よろづ此世を 去るによし   イセ凉菟


というのが、すでに載せられているそうです。しかし、このことで、この伝説を単に“デッチ上ゲ”と片付けたくはありません。たぶん“秋の坊”は、その句のことを知っていて、その日正月4日、自然に「正月四日 よろづ此世を 去るによし」が口から思わず出てしまったのではと考えられないでしょうか。


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(秋の坊のお墓)

”秋の坊“は、蓮昌寺の日牌帳には「寂玄院日明法師」として載せていて、享保三年(1718)正月四日が忌日になっているとか・・・・。

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(蓮昌寺の高麗門)

諷竹:江戸中期の俳人。通称は伏見屋久右衛門、別号に東湖・之道・蟻門亭等、薬種商を営み、大坂蕉  門の有力者。


涼菟:江戸前期の俳人。伊勢の人で伊勢神宮の下級神職。本姓は秦氏だが岩田氏を称す。元禄7(1694)ごろ各務支考を知り、以後親しく交わった。


李東:江戸前・中期の俳人。加賀蕉門の一人で通称源五郎、源六。加賀淵上村の十村役であったが、俳諧や蹴鞠に熱心なあまり、元禄10年(1697)に役を免じられた。北枝、秋の坊と親しかったという。


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(蓮昌寺の門前・藩政期は元如来寺町)

参考文献:「金澤市教育史稿」大正8年石川県教育会金澤支会編纂・「金沢の文学碑」昭和43年金沢の文学碑編集委員会(代表笠森勇)・「世相史話」復刻版平成5年発行

加賀の篤志家と藩の失業対策

【浅野川と犀川】
またまた、昭和30年代に郷土史家の八田健一氏の書かれた「百万石遠鏡」の中の話ですが、天保の頃(1830~1843)に金沢で刊行された“たのしみ草紙”という草双紙風のものの中に「犀川浅野川競合問答」と題する四十八首の歌が載っていると書かれています。


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(今の犀川大橋)


競合(きょうごう)というのは、今風にいうと“競争”ということで、犀川口と浅野川口の自慢比べで、いわゆる子供っぽい地域自慢の“言い合い合戦”を読み物にしたものらしく、八田氏によると内容は極めて低調なものだったとおっしゃっています。


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(今の浅野川大橋)


その中にちょっと気になる歌が載っていました。歌は、前の句を犀川の方からの詠みかけと、後の句を浅野川の方で受けるという趣向になっています。気になる歌とは・・・・


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(犀川大橋詰めの看板・昔の大橋)


牛馬の養い親は奇特なり
        困窮者を救ふ江さらえ

前の句「牛馬の・・・」は犀川口で、後の句「困窮者を・・・」は浅野川口自慢の句になっています。
(江さらえ=川浚え)

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(犀川大橋から片町(旧川南町)
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(昔の犀川大橋あたり・延宝図・石川県立図書館蔵)

歌や句は、シンプルでインパクトがあります。しかし、みなまで言わないので、教養に欠ける私などには、説明か解説がないと内容がよく分かりません。この本をお書きになった八田健一氏は意味が理解出来るように分かりやすくお書になられていて大助かりです。


“牛馬の養い親は奇特なり”


天保期、川南町(現在の片町スクランブル交差点から大橋まで)に城戸屋六兵衛という町人がいて、家は呉服屋で町役人(本町肝煎列)も務め、慈悲心の厚い人だったといいます。犀川の上流に小屋を設け廃牛廃馬を収容して養い、味噌蔵を立てゝ、毎年その五千貫目?を藩の非常用に収めたという篤志家だったといわれています。


(五千貫目が銀なら、単純に現在1両(銀60匁)10万円で換算すると、約83億円になります。毎年約83億円の寄付?事実だとすると奇特なんてものではなくて神か仏かも・・・・それは無い!。もし書き間違いで銭五千貫文としても1億円弱、またまた五千貫目が味噌の量だとすると、現在、味噌kg500円ぐらいで換算すると約1千万円か、これならありうる、それにしても立派!)


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(幕末浅野川大橋図の模写)


“困窮者を救ふ江さらえ”


天保の飢饉に際し藩は失業救済のため卯辰、大衆免の人々に、浅野川の“川浚え”を命じたことを指すもので、「下民お救いとして江掘り掘立て仰せ付けられ、1日ババカカどもまで二千人づつ出づ、このご入用銀百貫目余り」と天保8年の記録に有るといいます。


(銀百貫目は、約1億6千万円・・・。)


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(浅野川大橋から旧森下町の模写)


昔のことは、よくよく聞いて見なければ分かりません。藩政期、金額のことは、ともかく、何と立派な人もいたものだと感心します。また藩もそれなりに災害に対して有効な対策をたて対応していた事が、意地ぱりの自慢比べのような歌から垣間みえます。


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(浅野川詰めより旧森下町)


気になる藩の浅野川の“江ざらえ”ですが、昔から、上流から街中まで、極めて近い浅野川では、川浚えを怠ると、すぐに町に水が着くことを藩は心得ていて、失業対策で“江ざれえ”を行っていたということなのでしょうか?


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(2009年秋・浅野川の浚渫工事)


昭和28年(1953)の大水害以来、浅野川では小橋の堰や両岸の堤防を高くして、増水に備えてきましたが、平成20年(2008)7月の大水では、その堤防の角落しの閉鎖が遅れ、その隙間から水が漏れてしまいました。


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(2009年秋・浅野川の浚渫工事)

翌年、県は堤防だけでは防げないこと知り、速やかに川の浚渫工事が行われました。そういえば、何時だったか川沿いに住む長老からこの川は、“昔から川浚え、せんなダッチャカンがや”といっていたのを聞いたことを思い出しました。



参考文献:復刻版「百万石遠鏡」平成5年石川県図書館協会など

秋の坊①

【心の道・梅の橋→浅野川大橋】
私は“ひねり”ません。俳諧にも俳句にも、とんと疎かったのですが、金沢の昔話に関心を持つようになってから、金沢の俳人にも嵌ってしまいました。それで気付いたことですが、金沢は昔も今も“俳諧・俳句の国”であるということでした。


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(兼六園の芭蕉の句碑・東山に有っもの、明治時代に兼六園に移築されました。)


正岡子規の故郷、四国の松山では、NHKの番組など町を上げてアピールし、今では万人が認める「俳句王国」といわれていますが、金沢も俳諧の歴史は古く多くの優れた俳人を輩出していて、今も深~く静かに、思っていた以上に盛んで、松山が王国なら、金沢は「俳句大国」といっても過言ではないのではと、勝手に思っています。


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(兼六園の投句箱と入選句の発表)


関心を持って周りを見ると、町や公園に投句箱があり、新聞には投句欄や公民館や文化センターには俳句教室が、また、結社も幾つかあって、全く知らなかった訳ではありませんが、振り向けば、妹や従姉妹も叔母も投句が趣味で、義父母は句集も出すほどの俳句好きでした。それに引きずられて女房も長いこと東京や大阪の結社に毎月投句していました。


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(句集や俳句雑誌)


“秋の坊“を書こうとしたら前置きが長くなってしまいました。元禄2年(1689)芭蕉が「奥の細道」で金沢を訪れたことが引き金になって、約300年もの間、かなり深く広く受け継がれてきた”金沢の俳句”をアピールしたくて、少し熱くなり力が入ってしまいました。


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(北国新聞の句歌抄)


“秋の坊”は、「奥の細道」で芭蕉が元禄2年(1689)金沢を訪れた時、入門した金沢蕉門の一人です。加賀藩前田家に仕えた武士という説もありますが、加賀鶴来の人で、金沢に出て藩に仕えたとか、魚問屋の隠居という説まである謎の多い人物です。芭蕉が金沢に訪れた時、“秋之坊”は僧寂光と称し、蓮昌寺境内にあった末寺に蓮昌寺住職の弟子として“秋の坊”も含め14人ほどでそこに住んでいたといわれています。



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(蓮昌寺)

(また、蓮昌寺境内の庵室「秋日庵」に住んだという説もあり、そんな時代も有ったのでしょうか、友人の李東はその庵室の様子を吟じています。)


   “窓ひとつ ありとて暮る 春日哉  李東”


(蓮昌寺(れんじょうじ)さんは、日蓮宗の名刹で前田家3代藩主利常公の生母、寿福院の祈祷所で、大仏さんや泉鏡花絶筆「縷紅新草」にまつわる逸話もあり、何時か、ジックリ書くことにして、今日は”秋の坊“に関わることだけを書くことにします。)



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(門前の秋の坊の碑)

いつまでも童心を失わず素朴で篤実な“秋の坊”には、その童心ゆえの伝説が幾つか伝えられています。後に蕉門十哲の一人、俳人立花北枝とは、親しいながらも、句作には自説をゆずらず争いが絶えなかったといいます。さらに険悪になったのは芭蕉が金沢に来た時、北枝は、はじめに対面しているのに、“秋の坊”には何も知らせなかったことに怒り、何日か過ぎて芭蕉や曾良を囲んだ席で、北枝に一言も口を聞かなかったという話が伝わっています。


(そのことについて後に金沢出身の俳人高桑闌更の“俳諧世説”に、「翁(芭蕉)も笑ひ給ひて、坊が気象を称し給ひけるとぞ」と記されているそうです。)


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(蓮昌寺の薬医門)

そのように“秋の坊”と北枝は犬猿の間柄のようにいわれていますが、実は、北枝の「喪の名残」には“秋の坊”が北枝を賛嘆した跋文がしたためてあるといいます。

・立花北枝は、今後、別に紹介の予定。


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(蓮昌寺門前より)


(高桑闌更: 享保11年(1726)~ 寛政10年(1798) 江戸中期の俳人。金沢の商家出で、蕉風復古を志して芭蕉の資料を世に紹介した。また独自の蕉風論を唱え、後、江戸から京都に移り、天明3年(1783)洛東に芭蕉堂を営み、天明の俳諧復興に寄与した。温厚な性格が慕われて、多くの門人を擁した京都俳壇の中心人物で、医師でもあった。編著には「芭蕉翁消息集」「俳諧世説」[花供養]など)


―つづく―


参考文献:「金澤市教育史稿」大正8年石川県教育会金澤支会編纂・「金沢の文学碑」昭和43年金沢の文学碑編集委員会(代表笠森勇)・「世相史話」復刻版平成5年発行