そういえば、オートバイに足を轢かれたりこともありましたね。
怪我や事故、病気がほんとに絶えませんでしたよ。

両親としては、神仏に縋るしかなく、厄除けは欠かさなかったと思います。

本人は全く関心もなく、罰が怖くて毎日唱えていましたよ。

それから4年が経ち、ある夏の日、お不動さまが真っ暗な白壁に、クッキリ、ハッキリ、映ったのですよ。
目を擦ったのですが、それでもハッキリと見えました。


笑いながら、御言葉は、

励めよ!小僧。

御神仏の声は耳から聞こえて来ると思っていましが、丹田、腹に落ちてくる感じ。

やっぱりいたんだ!!

これで気持ちはさっぱり晴れやかになりましたよ。

将来は大金持ち確定と感じました。

偉い坊さんになるなんて微塵もなく、金儲けしたいというのが、いま考えると不思議です。

中学生になって国語辞典、漢字辞典で何となく、お教の意味がわかるようになりました。

その後に佛教を本格的な学ぶべく、大学院に進んで7年間学んだのですが、逆にわからなくなってしまいましたよ。

何故って?

私の身体には、お経は唱えるものだということが、長年染み付いているのです。

時代背景や、細かい解説なんていらないのです。

妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五偈

というお経があります。
観音様は、こんな時にこう助けてくださいます。

と個別具体的に書かれています。

斬り殺されそうになった時に、その刃を打ち砕いてくださいます。

等々、

簡単に言えば、
どんな時も、
どんな時も、
観音様が救ってくれます。


ということ。

愚僧には、これで十分だと悟ったのです。

アニマル浜口さんというプロレスラーの方が、

気合いだ!
気合いだ!

とおっしゃっていますが、
私もまさにこれだと感じています。

お経は気合いなんです。

気合いを入れて、呪文を唱える。

でなければ、
修行5年目、
お経の意味さえわからない、
門前の小僧の前に

お不動さまは、
現れませんよ。

1日600回
慈救咒を唱えて、
5年で100万回
記念だったかもしれませんが、その後、他の諸尊真を唱えるようになりましたが、おそらく1,000万回は唱えていますが、その後は、お不動様の御意志で現前されたことはありません。

お経を上げるというのは、
お経という名曲を如何に演奏していくのか?
ということだと思います。

私は名演奏家でもありませんし、毎日毎日、たくさんのお経を上げるため、ペースが早くなります。それが習慣になると、
もはや、ゆっくりお経を唱えられなくなってしまうのです。

お経を口で覚えているので、ゆっくり読むとお経がつっかえてしまうのです。

余談ですが、
墓前法要で、
お子さんから
何故お坊さんのお経は早いの?

と聞かれたことがありました。

本当はゆっくり読めないのですが、
偉そうに、仏さまのために、たくさんのありがたい、お教を読むためだよ。
と答えてしまいましたよ。

ごめんなさい。